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2019年4月に作成された記事

2019年4月30日 (火)

「稲荷神社」 兵庫県加古川市平岡町

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「稲荷神社」

主祭神 保食神(うけもちのかみ)
配祀神 なし
建立年 不明
所在地 兵庫県加古川市平岡町新在家559

兵庫県加古川市の南東の町、平岡町にある小さな稲荷神社。
配祀神はおらず、食物の神である「保食神」を主祭神に祀っている。

 

*

 

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「鳥居」

アスファルトで舗装された参道の入口に、朱色に塗られた木製の明神鳥居が2基建てられている。

「兵庫県神社庁」によると、当該神社は「地神社」と表記されているが、「稲荷神社」の特徴のひとつである「朱色の鳥居」が入口に建てられていることと、同神社の主祭神「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」とともによく祀られている「保食神」が本殿に祀られていることから、「稲荷神社」だと考えられる。

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「本殿」

「本殿」というにはあまりにも小さなもので、神社には拝殿や玉垣・手水舎といったものもいっさいなく、観音開きの素朴な木戸のついた「石の祠」が、どこからか切り出してきたような岩の土台の上にぽつんと祀られているだけである。

祠の本体と屋根に使われている石も、土台と同じ岩から作られたものだと思われる。
手を合わせたあと、木戸の格子の隙間から祠の内側を覗いてみたが、ご神体らしきものが祀られている様子はなかった。

桔梗に似た薄紫色の花を咲かせた「蔓日々草(ツルニチニチソウ)」が、神社の敷地を覆いつくさんばかりに緑の蔓を伸ばしていた。
この「蔓日々草」は、南ヨーロッパから北アフリカにかけて広く分布している蔓性の植物で、「魔女のスミレ」というメルヘンチックな異名を持っている。

真冬でも枯れずに緑の蔓をたくましく伸ばしていることから、ヨーロッパでは「不死のシンボル」とされ、身に着けると「幸運」と「繁栄」をもたらしてくれるという。

遠い異国の地から海を越えて日本に飛んできた、魔女の花。
訪れる者が一人もいなくなっても、不死の花に守られたこの場所は、ずっと消えずに残ってゆくに違いない。
閉じられた扉に向けて、そっと差し出すように伸びているスミレ色の花が印象的だった。

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稲荷神社は、京都から九州まで繋がるかつての西国街道……「旧山陽道」のすぐ南側にあり、旧街道を挟んだ北西側には「地蔵尊」が祀られている。
向かい側の地蔵尊とともに、この稲荷神社が今も変わらず同じ場所に存在していることを、図書館に蔵書されている旧街道の古地図で確認することができた。

稲荷神社が鎮座しているのは、農業倉庫として使われている建物の裏側にある30坪にも満たない狭い土地で、高さ2mほどのこんもりとした土の山のようになっており、その上に先ほどの石の祠が建てられている。
土の山は「塚」のようにも見え、土の中に埋まっている「なにか」を鎮めるために、祠が祀られているふうにも感じられる。

かつて、私が両親や妹たちとともに暮らしていた実家は、この稲荷神社のすぐ近くにあった。

今は幹の半分が切られて以前の面影はまったく消えてしまっているが、神社の境内である雑草の茂った丘の脇には、なんの木だかはわからない大きな木が傘のように枝を張っていて、夏になると、その木にとまってやかましいくらいに鳴いている大量のクマゼミを、幼なじみの友人たちといっしょに捕まえたものだった。

セミのほかにも、アリやカマキリやヒカゲチョウ、ゴマダラカミキリといった昆虫や、カナヘビ、カタツムリなどの生き物たちが、その小さな世界で生きていた。

当時は祠の裏手にキイチゴの木も生えていて、イクラの卵のように実ったキイチゴの甘い粒を、大人たちの目を盗んでは、やぶ蚊に刺されながら無心に食べていたこともある。

まだ幼い子供だった当時の私にとって、そこは恰好の遊び場所のひとつだったと同時に、「なにか」が祀られている「神聖な空間」であるということを、子供ながらに感じ取っていた。

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稲荷神社から北東に150mほど離れた畑の中に、50㎝ほど土の盛り上がった「空き地」がある。
上の写真が、その「空き地」なのだが、そこはかつて「竹藪」があった場所だった。

……あれは、私がまだ5~6歳のころの話だったように思う。

その日の夕方、友達と別れて独りで遊んでいた私は、なんとなく近所を彷徨い歩いているうちに、いつのまにか「竹藪」の前に立っていた。

自分のいる小道から、鬱蒼と茂った竹藪の奥に向かって脇道が続いているのが見えた。

「竹藪の中」に何があるのか。

無性に知りたくなった私は、怖い気持ちよりも好奇心のほうが勝ち、誘われるままに竹藪の奥へと入っていった。

入口から、どれくらい歩いたのか。

その時間は、長かったようにも、一瞬だったようにも思える。
竹藪の奥にあったのは、小さな「お稲荷さん」だった。

ずいぶん長い間手入れもされていないらしい古い社の前には、泥で汚れた白磁のお椀や割れた燭台などが、枯れた竹の葉にまみれてあちこちに散らばっていたのをなんとなく覚えている。

ふと私は、半分開いた木戸の隙間から、社の中を覗いてみた。
そこには、台座に納められた丸い小さな鏡と、胴体から真っ二つに千切れて床に転がっている「白狐の首」があった。
それを見た私は急に恐ろしくなり、竹藪の中から一目散に逃げ出したのだった。

……今も時々「夢」に出てくる、私の記憶の中の竹藪は、林くらい大きかったようにも思えるし、裏庭ほど小さかったようにも思える。

しかし、実際に訪れて見たその場所は、私の遊び場だった「稲荷神社」とほぼ同じくらいの小さな土地だった。

「そんなところに『お稲荷さん』なんかあったけ?」

あの日、半べそをかきながら家に帰ってきた私に、在りし日の母が首を傾げていたのを思い出す。

おそらく、その竹藪は私有地で、子供のころに私が見た「お稲荷さん」も、竹藪の持ち主が個人で建立してお祀りしていた神社だったのだろう。

あれから40年の時が過ぎ、「二つの小さな稲荷神社」を再び私が訪れたのも、「なにか」に誘われたからのような気がした。

 

平成31年4月15日参拝




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「愛宕神社」 兵庫県加古川市八幡町

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愛宕神社(あたごじんじゃ)

主祭神 軻遇突智神(かぐつちのかみ)
配祀神 なし
建立年 不明
所在地 兵庫県加古川市八幡町中西条字城山931

 

加古川市北部の町、八幡の「城山(じょやま)」の頂に鎮座する神社。

配祀神はおらず、火の神である「軻遇突智神」を主祭神に祀っている。

*


Img_1679 「愛宕神社参道入口」

「城山」の頂上には、いくつかの道を通って至ることができるが、本殿と繋がっている石段の道が本来の参道であるので、城山の南側にある参道入口から愛宕神社の本殿にお参りすることにした。

参道入口付近に建てられている小さなお堂に、地蔵菩薩……「お地蔵さん」が祀られていた。
私は昔から「お地蔵さん」が好きで、道端でお見掛けしたら、なるべく手を合わせるようにしている。

「おん かかか びさんまえい そわか」

なにか困ったことや不安な気持ちに襲われたとき、心の中でこのおまじない……「地蔵菩薩真言」を唱えると、不思議と心穏やかな気持ちになれるのだ。

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「愛宕神社参道」

参道の入り口に鳥居はなく、お地蔵さんのお堂の脇に、古びた石の階段が設けられている。
「わがまち加古川60選 西条の城山」と記された小さな案内看板が立てられている。

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しばらく登ると石段が消え、代わって、枯葉に埋もれた小道らしきものが現れる。
「道」というより、「溝」といったほうが適切なのかもしれない。
傾斜もかなりきついので、雨の日などは、ぬかるんだ地面と枯葉に足を取られて歩くこともままならないだろう。

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やがて、枯葉の小道は四つ辻と合流し、そこから再び石段の道になる。
石の階段のてっぺんにある樹木のトンネルの向こうに、ぽっかりと空いた青空の出口が見えた。

Img_1663 「愛宕神社境内」

樹木のトンネルを抜けると、朝の澄み切った青空の下で鮮やかな桃色の花を咲かせている二本の山茶花(さざんか)の木が、息を切らせて参道を登ってきた私を出迎えてくれた。

本殿の正面に対になって植えられている夫婦のような山茶花の木が、私には、この神社の「鳥居」であるように思えた。
山茶花の間をくぐり抜け、奥に見える本殿でお参りをする。

Img_1665 「愛宕神社本殿」

「愛宕神社」のご神体がお祭りされている切妻造りの小さな祭殿(本殿)は、堅固なコンクリート製の本殿兼拝殿の内部に守られるようにして納められている。

神様そのものである「ご神体」を写真に撮ることは無理だとしても、お祭りされているお社……本殿の外観を撮影するくらいなら神様も許して下さるだろうと思い、お参りを済ませたあとに、一礼して、拝殿の格子の隙間から写真を撮らせていただいた。

高床式の神殿、銅箔の張られた瓦のない切妻屋根、しめ縄で飾られた扉。これこそ、太古より「日本古来の神」が住まわれてきた家の形なのだろう。

本殿の扉を覆っている幕には、ほかの神社でもよく見られる「左三つ巴(ひだりみつともえ)」の紋が描かれている。

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「左三つ巴」紋


日本古来の装飾品「勾玉(まがたま)」を象ったような三つの巴が、時計回りに渦を巻くように意匠されている。

時計回りと言えば「右回転」であるが、巴の「頭」ではなく「尾」に着目してみると、それぞれの巴の尾の先端が、頭の中心からぐるぐると外向き(左向き)に渦を描きながら「左回転」していることがわかる。

よって、この紋は「左三つ巴」とされる説がある。

三つの巴が「水の渦」のようにも見えることから、古来より「火除け」の意味合いがあり、寺社や屋敷の屋根瓦などにこの紋が広く用いられている。

各地の「愛宕神社」が、火の神である「軻遇突智神」を多く祀っていることからも、おもに火事から村や人々を護るために建立されていることがわかる。

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拝殿の後ろ側に回ってみると、どういうわけだか知らないが、壁際の棚のようなスペースに、「ドングリ」がびっしりと集められていた。
湾曲した5本の細い木枝が半月様に組まれ、その内側に、大小100個ほどもあるドングリの実が整然と敷き詰められている。
神社に遊びにやって来た近所の子供たちが、雑木林に落ちているドングリを拾い集めてきて、ここにひとつひとつ並べ置いたのだろうか?

それにしては丁寧で、なにか呪術的な意味が込められているようにも思える。
ひょっとしたら、城山のどこかに住んでいる「狐」が、林に落ちているドングリをせっせと拾い集めては、神社に奉納したものなのかもしれない。

そんな光景がふと脳裏に思い浮かんだ私は、神聖な「結界」には手を触れずに、その場をあとにすることにした。

Img_1668 「境内摂社」

本殿うしろの敷地に祀られている小さなお社。
コンクリート造りのりっぱな建物に守られた本殿とは対照的に、長い間手入れもされていないらしい簡素な摂社は、割れた寝具とともに野ざらしになっていた。

Img_1667 石のベンチが置かれた神社の裏側は、ちょっとした「展望スポット」になっており、加古川北部の街並みを山の上から見渡すことができる。

写真の左側に見える大きな川が、市名の由来にもなっている一級河川の「加古川」で、川の下側には「加古川大堰(かこがわおおぜき)」があり、中央部には「上荘橋(かみそうばし)」、最奥には、JR加古川線の「加古川第二橋梁」が架けられているのが見える。

治水の要となっている加古川大堰の上流部は障害物もなく、十分な川幅と豊富な水量が常に確保されているため、「レガッタ」の練習や公式試合の競技場としても利用される。

「城山」のちょうど西にあたる方角に「愛宕山」があり、加古川を挟んだ東西それぞれの山の頂には、同じ「軻遇突智神」を祀った「愛宕神社」がある。
愛宕山と城山に鎮座している二人の神様は、互いの顔を山の上から窺っているのかもしれない。

Img_1671 「西条城跡」

愛宕神社のある城山は、かつて存在していた「西条城」の城跡とされている場所で、境内に設けられている案内看板には以下のような記述がある。


西条の城山(さいじょうのじょやま)

「標高85メートルの城山は、赤松則村(円心)(1277-1350)の城館跡と伝えられていることから、西条城跡の遺跡になっています。

江戸時代中期の地誌である『播磨鑑』には、中西条村から東へ2丁(約218m)の場所にあり、長さ140間(約265m)、横幅100間(約182m)、高さ84間(約153m)と記されています。

また、この城山には、建武3年(1336)に建立された紫鳳山法雲禅寺という寺院がありましたが、江戸時代には廃寺となったことが記されています。」

平成26年3月 加古川市教育委員会


赤松氏第4代当主であり、禅宗に帰依していた「赤松則村」という名のある武将は、知略に長け、戦上手の剛腕無双の武士でありながら、義理堅く、情に厚い人物だったと評されている。

鎌倉幕府打倒を掲げた「後醍醐天皇」と、室幕幕府の樹立を目指す「足利尊氏」の挙兵に応じ、両君を大いに助け、数々の武功をあげた則村は、現在の加古川を含む播磨の国を治める守護大名として「播磨守護職」に任じられた。

後醍醐天皇が挙兵に及んだ「元弘の乱」においては、鎌倉幕府方に内通しようとした一族の高田氏を、ここ「西条城」で迎え撃ち、敗退させたとされている。

その赤松氏の家紋が、西条城のあった城山に祀られている愛宕神社と同じ「左三つ巴」の紋であることも、偶然ではないだろう。

「具平親王神社」に祀られている「具平親王」の子孫である赤松氏は、のちに、京極氏、一色氏、山名氏とともに、室町幕府の軍事指揮等を担う要職の「四職家」のひとつとなり、播磨・摂津・美作・備前の四か国を領する大大名(だいだいみょう)となった。

しかし、守護大名赤松氏の守護代であった浦上氏による専横と、尼子氏、三好氏などの新興勢力の台頭により、室町幕府の名門として隆盛を極めた赤松氏の勢いは急速に衰退してゆくことになる。

時が変わり、天下統一を目前にした織田信長が臣下の羽柴秀吉に命じて播磨を支配下に置いたころには、赤松氏の勢力は事実上消滅しており、もはや名目だけの大名にすぎなかった。

その後、豊臣家の一家臣として関ヶ原の戦いで西軍についた赤松氏は所領を失い、大阪の陣で豊臣家が滅亡すると、帰農して郷士……土着の武士となった。
ここに、武家としての赤松氏は滅亡したのである。

私事で恐縮ではあるが、沖縄近くの離島出身の私の父方の先祖は、もともとは九州の島津氏の流れを汲む武士であり、「江戸幕府の滅亡後に武士を捨てて農民になった」という話を、亡き父から伝え聞いた。

その割には、直系の嫡男であるはずの私は先祖代々の系図や刀などもいっさい受け継いでいないので、自身の先祖が島津氏だったという事実も真偽のほどは疑わしいものなのだが……。

とはいえ、今の私の地元である播磨地方の名門赤松氏の衰退と、はるか海の向こうの琉球で暮していた自身の先祖の境遇がどこか似ていることに、この城山に残る愛宕神社を訪れた私も、不思議な縁のようなものを感じずにはいられなかった。


平成31年年4月4日参拝 ウィルカ




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「具平親王神社」 兵庫県加古川市野口町

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具平親王神社(ともひらしんのうじんじゃ)

主祭神 具平親王(ともひらしんのう)
配祀神 大年神(おおとしのかみ)
建立年 天永二年(1111年)
所在地 兵庫県加古川市野口町古大内457

加古川市野口町の旧「古大内(ふるおうち)村」にある神社。

「村上天皇第七王子具平親王八世の孫従三位右近衛少将秀房卿(源秀房)が鳥羽院の勅を奉じ、天永2年(1111)、古大内の地に移り鎮まった。村名、古大内(ふろち)(古い大内)もこのことに因る」

「兵庫県神社庁」ウェブサイトより)

上記のとおり、村上天皇の第七皇子であった「具平親王」の御霊を祀るために、その子孫の「源秀房」が建立したとされる。

配祀神(はいししん)として、「大年神」が祀られている。

*


Img_1686 「鳥居」

参道入口に建てられている「明神鳥居」。

鳥居を構成している一対の柱と上下二本の横木のうち、柱の頂に載せられる上側の横木を「笠木(かさぎ)」といい、笠木と並行して柱の下側に組まれている横木を「貫(ぬき)」という。

「島木(しまぎ)」と呼ばれる角材が、笠木の底側に張り合わせられるようにして置かれた鳥居が「明神鳥居(みょうじんとりい)」で、全国で最も一般的に見られる鳥居の形とされている。

笠木の両端が反り上がっているのが明神鳥居の特徴で、二本の横木の間に「額束(がくづか)」という方形の額が組まれていることが多い。

向かって右側の鳥居の柱には「皇紀二十六百年秋建之」と彫られてあり、この鳥居が昭和15年(1940年)の秋に建立されたことを示している。

Img_1695 「百度石」

鳥居の脇にある「百度石(ひゃくどいし)」。
傍らには「水仙」の花が咲いていた。

参道脇にある「手水舎(ちょうずや。ほかに、ちょうずしゃ・てみずや・てみずしゃ、とも読む)」で、手と口を清めてから本殿に向かう。

百度石に寄り添って咲いている水仙の花が愛らしく印象的だったので、肝心の手水舎の写真を撮ることをすっかり忘れてしまった。


Img_1687 「具平親王神社本殿」

鳥居をくぐって50mほど参道を歩いた先に、「玉垣(たまがき)」に囲まれた質素な本殿があり、その中にご神体の祀られた祭壇が納らている。

本殿に祀られている「具平親王」は、優れた文人・詩人として知られ、『拾遺和歌集』をはじめとする著名な詩集に数多くの詩歌を遺している。


『春はなほ来ぬ人待たじ花をのみ心のどかに見てを暮らさむ』 具平親王(続拾遺87)


木造の本殿は質素だが、手入れの行き届いた境内にはブランコやすべり台などの遊具も置かれており、「氏神様」として日ごろから地域の人たちに親しまれている神社であることが窺い知れる。

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「狛犬」

本殿を守護している「狛犬(こまいぬ)」。

獅子=ライオンが原型で、高麗(朝鮮)の地から日本に伝来したライオンを初めて見た人々が「犬」だと思い込み、「高麗犬」と呼んで神社の守護としたのが「狛犬」のはじまりとも言われている。

本殿に向かって右側のものが、口を開いた形の「阿形(あぎょう)」の狛犬、左側が「吽形(うんぎょう)」の狛犬で、一対で「阿・吽(あ・うん)」の形をとっている。

「阿・吽」は、古代インドのサンスクリット語「梵字」が語源で、梵字の文字の配列が、口を開いた状態の「あ」からはじまり、口を閉じた状態の「うん」で終わることから転じて、「宇宙のはじまりから終わりを示す理」とされた。

日本の「ひらがな」の仮名文字が、「あ」からはじまって「ん」で終わるのも、偶然ではないような気がする。

この小さな境内の中に「宇宙」のはじまりと終わりが存在するのだと考えると、なかなかに感慨深いものがある。


Img_1690 「境内摂社」

本殿の東側に建てられている社殿。

主祭神が祀られている大元の神社(本社)に付属している神社(小社)を「摂社(せっしゃ)」といい、本社と同じ境内に建てられている摂社を「境内摂社」と呼ぶ。
摂社には本社と関係の深い神が祀られている。
社殿の中には「石」が置かれているが、こちらの石が「大年神」として祀られているのだろうか。


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「末社」

摂社と反対側にある本殿の西側には、かわいらしい二つの小さな社が置かれていた。
摂社と同じように、こちらの社の中にも「石」が祀られている。

Img_1691  「古大内城址石碑」

神社の境内には、「古大内城址」と彫られたりっぱな石碑と、「古大内遺跡(賀古駅家跡)」と記された市の案内板が、参道を挟んで両側に向かい合うようにして建てられている。

神社から北に200~300mほど離れた先に、国道2号線と並行するようにして旧街道の「山陽道」が通っており、今から1000~1300年ほど昔に「賀古駅家(かこのうまや)」という駅(うまや)が街道脇に設けられていた。

奈良時代当時、山陽道最大=日本最大の規模であった「賀古の駅」には、常時40頭以上の馬が準備されていたと『播磨風土記』に記述されている。

その「賀古の駅」のあった場所が、この「具平親王神社」が建立されているあたりだとされているのだが、同時にそこは「古大内城」のあった場所だともされているのである。

しかしながら、市の教育委員会によって設置された古墳の案内板には、「古大内城」については一言も触れられていない。

「古大内城」は、かつて播磨国・美作(みまさか)国・備前国を支配した守護大名「赤松氏」の始祖「源秀房(季房とも)」が築城したものと伝えられているので、同じく源秀房が建立した「具平親王神社」に「古大内城」が存在していたとしても、おかしくはない話である。

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言われてみれば、神社の西側にあたる草木が生い茂ってる場所(上の写真)は、城の「内堀」の跡のようにも見えなくもない。


<付記>


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具平塚古墳(ぐへいづかこふん)

 

「具平親王神社」から西に1kmほど離れた「別府川」の東岸に、「具平塚古墳」という史跡がある。

<江戸時代の地誌『播州名所巡覧図鑑』に、「具平親王墓」の記載があり、世に朱見塚(しゅけんづか)といったことが記されている>

……と記載された角柱が、申し訳程度に古墳のそばに埋められているが、「古墳」と呼ぶには奇妙な代物で、田んぼの中にぽつんと残されているそれは、傍目には「雑草が生い茂ったただの土の山」のようにも見える。

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ところで、この「具平塚古墳」と呼ばれている塚には、

「塚に触ったり、生えている草を刈り取ったりすると『祟り』がある」

という恐ろし気な言い伝えが、地元の人たちの間で今も残っているという。

雑草が生えて荒れ放題になっているのは、「祟り」を畏れて、だれもこの塚に触ろうとしないからなのだとか(……この塚に角柱をぶっ刺した人は、その後大丈夫だったのだろうか?)。

この塚が本当に「具平親王の墓」であるのかは定かではないが、「祟り」として語り継ぐことで、神聖な領域が汚されるのを防いでいるのかもしれない。

現にこの塚は、今でも取り壊されずに残っているのだから。


平成31年4月7日参拝 ウィルカ




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「愛宕神社」 兵庫県加古川市平荘町

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愛宕神社(あたごじんじゃ)

主祭神 「軻遇突智神」(かぐつちのかみ)
配祀神 「毘沙門天神」(びしゃもんてんのかみ)
建立年 不明
所在地 兵庫県加古川市平荘町里126-1

加古川市北部に所在する人造湖「平荘湖(へいそうこ)」東岸の「愛宕山(あたごやま)」に鎮座している神社。

建立年は不明。神社の由来を著している文献や資料が残っていないので詳細はわからないが、兵庫県の神社を統括している「兵庫県神社庁」のウェブサイトには「愛宕神社」という名称がはっきりと記載されているので、神社名については間違いないものである。

京都府にある総本社「愛宕神社」の祭神のひとりとして祀られている主祭神「軻遇突智神」(かぐつちのかみ)のほかに、こちらのお社には、配祀神(はいししん=主神以外の神)として「毘沙門天神」(びしゃもんてんのかみ)が祀られている。

すぐ近くにある「平荘湖」を訪れる人は多いが、山上にあるこの神社の存在を知る人はほとんどいない。

拝殿をはじめ、境内に散在している古い祠の数々も腐食が進み、長い間手入れがされないままの状態になっている。


愛宕神社までのルートマップ (ウィルカ作成)

 

*


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①「駐車場」

平荘湖に設けられている正規の駐車場ではないものの、「平荘第1ダム」西側にある公衆トイレ付近の道路は駐車禁止ではないため(入口など一部の場所を除く)、数台ほどの車を止めることが可能となっている。

Img_1652 ②「嶽山登山口」

「平荘第1ダム」東側の道脇に、「嶽山登山口」と記された手書きの道標が設置されている。

本来ならば、「愛宕山」の北にある⑨番「参道入口」の鳥居をくぐってから本殿にお参りするのが正しい作法である。

しかしながら、現在、鳥居のある場所は私有地(ゲートボール場)として使用されているので立ち入ることができない。そのため、平荘第1ダム東側の②番「嶽山登山口」側から「嶽山」を登り、尾根伝いに歩いて、嶽山の北に繋がっているもう一つの山「愛宕山」を目指すしか方法がない。

嶽山には二つの尾根があり、愛宕神社の本殿は、二つの尾根を越えた先にある愛宕山の山頂下あたりに設けられている。

登山口から本殿までは500mほどの距離で、所要時間は20分~30分程度。

ただし、登山道は荒れており、途中にも危険な箇所が多々あるため、体力に自信のある健常な大人以外は登山道に立ち入らないほうが無難。

<注意>小さな子供やお年寄り、身体に障がいを持った方々が登山道を通って本殿にたどり着くことは不可能です。また、成人男性の介助があっても大変な危険と困難が伴い、重大事故の恐れもあるので、絶対にやめてください。

Img_1650 ③「三叉路分岐点」

この三叉路からそのまま東に直進すれば、墓地と地蔵寺のある集落に抜け、北に続く登山道を登れば、嶽山山頂に至ることができる。

間違って入ってきたときや、登山に自信がない場合は、ここから来た道を西に引き返せば、先ほどの登山口まで戻ることができる。

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③「三叉路分岐点」~④「鉄塔1」に至る道

鉄塔への途上には岩場があり、付近にはこのような瓦礫が散らばっている。

実はこれらの石は瓦礫ではなく、風雨に晒された遺跡の一部が地面に露出したもので、人為的に石が積まれた形跡も確認できる。

古来より有力な豪族が存在していた加古川の各地には、二千年以上が過ぎた現代でも古墳時代の遺跡が多数発掘されており、平荘湖一帯にも「平荘湖古墳群」として多くの遺跡が点在している。

Img_1648 ④「鉄塔1」

遺跡の道を登ると、送電線の鉄塔が敷設された嶽山の一つ目の尾根の頂に出る。

一見するとここで行き止まりのように思えるが、鉄塔の根元にある大きな一枚岩に鉄製の梯子が垂直に据え付けられており、⑤番「嶽山山頂」に至るためには、下の写真に見られる鉄梯子を伝って、5mほど真下に見える地面まで慎重に降りてゆかなければならない。

まずここで、多くの人が登山を断念することになる。

Img_1647 …「こんな梯子」を日常の世界で実際に使う機会なんて、一生のうちでもそうそうないだろう。

『ドラゴンクエスト』の世界では、私もよく「こんな梯子」を登り降ろしてるけど(笑)

Img_1646 ④「鉄塔1」~⑤「嶽山山頂」に至る道

この写真は、⑤嶽山山頂の岩場から西向きに撮影したもの。実際の登山道は山の木々の中に続いている。
奥の尾根の上に見えるのが先ほどの鉄塔。

Img_1644 ⑤「嶽山山頂」

鉄塔1の梯子を降りてしばらく東に進むと、二つ目の尾根となる「嶽山」(海抜96m)の山頂と思しき開けた場所に出る。

登山道から少し張り出たところに岩場があり、遠くに見える「加古川」と「加古川市街」を眺望することができるが、岩場のすぐ下は崖なので注意が必要。山頂は100mほどの高さがあるので、誤って崖下に滑落すれば、まず無事ではすまないだろう。

Img_1642 ⑤「嶽山山頂」~⑥「鉄塔2(愛宕山山頂)」に至る道

鬱蒼とした山の木々の間を、枯葉の堆積した細い小道が続く。春の今ごろは、時おりタテハチョウ科の大形の蝶が優雅に空中を舞っているのを見かけるくらいだが、真夏にここを歩けば、蝉時雨の中で猛烈な蚊の襲来に遭うのは想像に難くない。

Img_1640 ⑥「鉄塔2(愛宕山山頂)」

嶽山山頂から尾根伝いに北へ降りた先で、二つ目の鉄塔が敷設されている地点…「愛宕山」の山頂に出る。この付近で登山道が自然の中に消えかけているので少し戸惑うが、目指す愛宕神社はすぐ下の平地にあるので道に迷わないように注意して進む。

Img_1639「鉄塔2(愛宕山山頂)」~⑦「愛宕神社」に至る道

鉄塔2を少し下った場所に、このような人為的な石積が遺されている。

これも遺跡の一部とみられ、このあたりは「地蔵寺3号墳」として市に指定されている。しかしながら、その遺跡を示す木製の角柱も半ばで折れて、付近の木の根元に打ち捨てられていた。

この石を積み上げた人は、どういう想いでこの場所にいたのだろう。今はこの世にいない人の手で二千年前に積み上げられた石が、そのときの時間と姿のまま止まっている。

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⑦「愛宕神社」

登山口から歩いておよそ20分後。
ようやく「愛宕神社」にたどり着く。
訪れる人もなく、落ち葉の積もった境内の奥にひっそりと佇んでいる小さな本殿にお参りをする。

Img_1630 朽ちかけて苔むした拝殿の扉は、銀色に光る鉄製の鎖で頑丈に「封印」されていた。

格子の間から覗いてみると、社の中に、さらに小さな社が祀られてあるのが見える。
その小さな社こそが、愛宕神社の本殿なのだろう。

本殿の中央にぶら下がっている鈴の鈴緒(すずお)は、外側の社のくたびれ方に対してまだ新しく、おそらくはこの神社を管理している「平之荘神社(へいのそうじんじゃ)」の方々が、こちらの愛宕神社の例祭日として定められている10月21日に、新しい鈴緒と取り換えているものと思われる。

境内は荒れていても、この小さなお社の神様が蔑ろにされているのではけっしてなく、今でも地元の人たちに大切に信仰されていることに、よそ者の私も心温かな気持ちになれた。

Img_1636 本殿の前にある御神灯。

側面に「天保十三年寅年」の字彫りがなされている。
天保13年…西暦1842年に生まれたこの御神灯は、177年の間、この場所に独りで立って、本殿にお参りする人たちの背中を見守り続けてきたに違いない。

年老いた自分の身体に蝋燭の炎が点される日は、もう二度と来ないと知りながら。

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境内に点在している小さな祠。

今は空っぽだが、昔は各々の祠の中に、それぞれの神様が住んでいたに違いない。

境内にはこれらの祠のほかにも、「紀念碑」と記された大きな石碑と、「常夜灯」と記された小さな石柱があり、それぞれの側面には、「明治三十有八年七月建」、「弘北三年十二月吉日」と彫られてあった。

Img_1627 ⑧「愛宕神社参道」

境内下から入口までは、比較的最近に作られたと思われるコンクリート製の階段がつづら折りになって続いている。

入口から170mほどの距離があり、この石段を歩いて登るだけでも相当の体力を要することになる。

Img_1626 ⑨「愛宕神社参道入口鳥居」

総本社「愛宕神社」の鳥居である「明神鳥居(みょうじんとりい)」と同じ形式で作られた鳥居。

本来なら、ここで一礼してから鳥居をくぐり、本殿にお参りするのが神様への礼儀だが、先述のようにこの鳥居が建てられている広場は「老人会のゲートボール場」となっており、「用のない者の立ち入り禁止」という札とともに広場への門が閉じられている。

…が、実際は人が通れるだけの隙間が開けられていた。

「わしは神様に『御用』があるんじゃ~!」と言ってそのまま立ち入ろうかとも思ったが、やはり不法侵入になってしまう恐れがあったので断念して、「嶽山登山口」のほうから入ってお参りをした。

しかし、「鳥居」からお参りせずに「裏山」からいきなり神社に入るなど、人様の家を訪問したときに、「玄関」から入らずに「勝手口」から挨拶もなく入るようなものだろう。

私有地であるので、部外者がゲートボール場に無断で立ち入ることを禁じるのは当然だとしても、神社にお参りするためにはどうしても通らなくてはならない鳥居のある土地にあとからゲートボール場を作っておきながら、「用のないものは入るな」と一般の参拝者まで締め出すのは如何なものか?…と思わなくもない。

山の上に住んでおられる神様は、「一部の人」ではなく「多くの人」にお参りに来てもらいたいと望んでいるのではないだろうか?

 

<おわりに>

「愛宕神社」を私が訪問したのは、今回で「二度目」である。

「一度目」に訪れたのは、今から二十年以上も昔の、私がまだ成人して間もないころだ。

ふとしたきっかけで、今でも親交のある古い友人と「『あの神社』へ行ってみよう」という話になり、私たちがずっと気になっていたその場所に、軽い気持ちで訪れてみたのだった。

神社の鳥居が建てられている土地には当時からゲートボール場があったが、立ち入り禁止の札もなく、だれでも入れるような環境だったと記憶している。

この文章を書いている今日と同じように、若かりし私たちが訪れたその日も、そろそろ桜の花が満開になるころで、ゲートボール場に植えられていた一本の桜の木が、花冷えの寒の残るはるのひの陽だまりの中で、薄桃色の花びらを裏表に音もなく散らせていた。

「……今の、見えた?」

本殿にお参りしたあと、鳥居のある広場まで戻ってきたとき、私の隣に並んで歩いていた友人がふいに立ち止まり、私に尋ねた。

「なにが?」

「あそこに、『おった』やろう?」友人は前を向いたまま、ぼそりと言った。

「かすりの着物を着た男が、俺らのことをずっと見とったんや」

私は、今しがた自分たちがいた神社のほうを見上げてみたが、今もさっきも、友人の言うような「男」はいっさい見えなかった。

「もうおらへんけど、境内からは出られへんみたいで、俺らが鳥居から出るまでの間、上からじいっと見つめとったわ。……あんな古い着物を着た男。今の時代の人間やないで」

私もそのとき初めて知らされたことだが、私の友人はいわゆる「見える人」で、今までにも何度か同じような体験をしてきたという話だった。

「有名な神社は大丈夫やけど、そこらへんにある古い神社には独りで行かんほうがええで。『祟り』を鎮めるためにその場所に封じられとう神様もおるから。それから、知らん神社でむやみにお願い事もしたらあかんで。神様は見返りを求めるからな」

霊感などまったくない私も、私には見えない「男」がいたという本殿のほうを振り向かずに話す友人の言葉に、そのときは黙って頷くほかなかった。
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「平荘湖」 今もこの湖の下に、丸ごとひとつの村が眠っている。

……それから20数年後。

もう一度、私は「あの神社」に行ってみたいと思った。

「あの神社」は、訪れる人々に「祟り」をもたらすような怖い存在ではなく、そこに、この世のものではない「だれか」がいたとしても、それは「悪いもの」ではないような気がした。

神社のそばにある「平荘湖」は、今から50年以上昔に、もともとその地にあった村を丸ごと沈めて作った人造ダム湖である。

もうひとつの人造湖である「権現湖(ごんげんこ)」と、市内を流れる「加古川」とともに、私たち27万人の加古川市民の喉を潤している「平荘湖」の底には、「又部新田村(またべにったむら)」という過去に存在していたひとつの村が、今も水中深くに没している。

そこで産まれて死んでいった、たくさんの人たちの記憶や村の歴史とともに。

湖が作られる前には、きっと「あの神社」も、山の上から村人たちの生活を見守っていたに違いない。

もしかしたら、友人の見たという「男」は、昔、又部新田村に住んでいた村人の一人だったのではないだろうか。

その想いだけが、湖の底に村が沈んでしまった今でも残っている神社にずっと住みついていて、神社に訪れてくれる人を待っているのではないだろうか。

そう感じた私は、今度は独りで、「あの神社」にお参りをした。

でも、やっぱり私には、今度も「男」の姿は見えなかった。

25年前のあの日と同じように、苔むした社や古い祠が、人気のない境内に無言で佇んでいるだけだった。

神社に差す日の光は明るく、温かだった。
「また、来ますね」
心の中でそう言って、私は神社をあとにした。

Img_0677 当時(23歳のころ)の私 「平荘湖」で撮影

さて。
当時の私は、「カメラ」に凝っていました。

今のように、シャッターボタンを押せばだれでも簡単にきれいな写真が撮れる「デジカメ」というシロモノは、まだ存在していなかった時代です。

私が使っていたのは、カメラ本体に装てんした「フィルム」に映像を露光させる「銀塩カメラ」と呼ばれる種類のもので、キヤノン製の一眼レフカメラを愛用していました。

露出をカメラが自動で設定してくれる「AEカメラ」といわれるものや、自動でフォーカス(焦点=ピント)を合わせてくれる「AFカメラ」なども、そのころからすでに存在していましたが、カメラを趣味としていた当時の私は、すべて「マニュアル」で撮影をしていました。

上の写真は、「平荘湖古墳群」の探索に来た折に湖畔で撮影したもので、カメラの露出や写真の構図などは自分が決めて、いっしょにいた友人にシャッターボタンだけを押してもらいました。

そうして撮れたのが、私のお気に入りの一枚であるこの写真なのです。

ちなみに、写真が「カラー」ではなく「白黒」なのは、当時の私が「白黒写真」に凝っていたせいです。

…にしても、まだ若いわあ~私(笑)


平成31年4月4日参拝 ウィルカ




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