「具平親王神社」 兵庫県加古川市野口町
具平親王神社(ともひらしんのうじんじゃ)
主祭神 具平親王(ともひらしんのう)
配祀神 大年神(おおとしのかみ)
建立年 天永二年(1111年)
所在地 兵庫県加古川市野口町古大内457
加古川市野口町の旧「古大内(ふるおうち)村」にある神社。
「村上天皇第七王子具平親王八世の孫従三位右近衛少将秀房卿(源秀房)が鳥羽院の勅を奉じ、天永2年(1111)、古大内の地に移り鎮まった。村名、古大内(ふろち)(古い大内)もこのことに因る」
(「兵庫県神社庁」ウェブサイトより)
上記のとおり、村上天皇の第七皇子であった「具平親王」の御霊を祀るために、その子孫の「源秀房」が建立したとされる。
配祀神(はいししん)として、「大年神」が祀られている。
*
「鳥居」
参道入口に建てられている「明神鳥居」。
鳥居を構成している一対の柱と上下二本の横木のうち、柱の頂に載せられる上側の横木を「笠木(かさぎ)」といい、笠木と並行して柱の下側に組まれている横木を「貫(ぬき)」という。
「島木(しまぎ)」と呼ばれる角材が、笠木の底側に張り合わせられるようにして置かれた鳥居が「明神鳥居(みょうじんとりい)」で、全国で最も一般的に見られる鳥居の形とされている。
笠木の両端が反り上がっているのが明神鳥居の特徴で、二本の横木の間に「額束(がくづか)」という方形の額が組まれていることが多い。
向かって右側の鳥居の柱には「皇紀二十六百年秋建之」と彫られてあり、この鳥居が昭和15年(1940年)の秋に建立されたことを示している。 「百度石」
鳥居の脇にある「百度石(ひゃくどいし)」。
傍らには「水仙」の花が咲いていた。
参道脇にある「手水舎(ちょうずや。ほかに、ちょうずしゃ・てみずや・てみずしゃ、とも読む)」で、手と口を清めてから本殿に向かう。
百度石に寄り添って咲いている水仙の花が愛らしく印象的だったので、肝心の手水舎の写真を撮ることをすっかり忘れてしまった。 「具平親王神社本殿」
鳥居をくぐって50mほど参道を歩いた先に、「玉垣(たまがき)」に囲まれた質素な本殿があり、その中にご神体の祀られた祭壇が納らている。
本殿に祀られている「具平親王」は、優れた文人・詩人として知られ、『拾遺和歌集』をはじめとする著名な詩集に数多くの詩歌を遺している。
『春はなほ来ぬ人待たじ花をのみ心のどかに見てを暮らさむ』 具平親王(続拾遺87)
木造の本殿は質素だが、手入れの行き届いた境内にはブランコやすべり台などの遊具も置かれており、「氏神様」として日ごろから地域の人たちに親しまれている神社であることが窺い知れる。

「狛犬」
本殿を守護している「狛犬(こまいぬ)」。
獅子=ライオンが原型で、高麗(朝鮮)の地から日本に伝来したライオンを初めて見た人々が「犬」だと思い込み、「高麗犬」と呼んで神社の守護としたのが「狛犬」のはじまりとも言われている。
本殿に向かって右側のものが、口を開いた形の「阿形(あぎょう)」の狛犬、左側が「吽形(うんぎょう)」の狛犬で、一対で「阿・吽(あ・うん)」の形をとっている。
「阿・吽」は、古代インドのサンスクリット語「梵字」が語源で、梵字の文字の配列が、口を開いた状態の「あ」からはじまり、口を閉じた状態の「うん」で終わることから転じて、「宇宙のはじまりから終わりを示す理」とされた。
日本の「ひらがな」の仮名文字が、「あ」からはじまって「ん」で終わるのも、偶然ではないような気がする。
この小さな境内の中に「宇宙」のはじまりと終わりが存在するのだと考えると、なかなかに感慨深いものがある。
「境内摂社」
本殿の東側に建てられている社殿。
主祭神が祀られている大元の神社(本社)に付属している神社(小社)を「摂社(せっしゃ)」といい、本社と同じ境内に建てられている摂社を「境内摂社」と呼ぶ。
摂社には本社と関係の深い神が祀られている。
社殿の中には「石」が置かれているが、こちらの石が「大年神」として祀られているのだろうか。
「末社」
摂社と反対側にある本殿の西側には、かわいらしい二つの小さな社が置かれていた。
摂社と同じように、こちらの社の中にも「石」が祀られている。 「古大内城址石碑」
神社の境内には、「古大内城址」と彫られたりっぱな石碑と、「古大内遺跡(賀古駅家跡)」と記された市の案内板が、参道を挟んで両側に向かい合うようにして建てられている。
神社から北に200~300mほど離れた先に、国道2号線と並行するようにして旧街道の「山陽道」が通っており、今から1000~1300年ほど昔に「賀古駅家(かこのうまや)」という駅(うまや)が街道脇に設けられていた。
奈良時代当時、山陽道最大=日本最大の規模であった「賀古の駅」には、常時40頭以上の馬が準備されていたと『播磨風土記』に記述されている。
その「賀古の駅」のあった場所が、この「具平親王神社」が建立されているあたりだとされているのだが、同時にそこは「古大内城」のあった場所だともされているのである。
しかしながら、市の教育委員会によって設置された古墳の案内板には、「古大内城」については一言も触れられていない。
「古大内城」は、かつて播磨国・美作(みまさか)国・備前国を支配した守護大名「赤松氏」の始祖「源秀房(季房とも)」が築城したものと伝えられているので、同じく源秀房が建立した「具平親王神社」に「古大内城」が存在していたとしても、おかしくはない話である。

言われてみれば、神社の西側にあたる草木が生い茂ってる場所(上の写真)は、城の「内堀」の跡のようにも見えなくもない。
<付記>
具平塚古墳(ぐへいづかこふん)
「具平親王神社」から西に1kmほど離れた「別府川」の東岸に、「具平塚古墳」という史跡がある。
<江戸時代の地誌『播州名所巡覧図鑑』に、「具平親王墓」の記載があり、世に朱見塚(しゅけんづか)といったことが記されている>
……と記載された角柱が、申し訳程度に古墳のそばに埋められているが、「古墳」と呼ぶには奇妙な代物で、田んぼの中にぽつんと残されているそれは、傍目には「雑草が生い茂ったただの土の山」のようにも見える。
ところで、この「具平塚古墳」と呼ばれている塚には、
「塚に触ったり、生えている草を刈り取ったりすると『祟り』がある」
という恐ろし気な言い伝えが、地元の人たちの間で今も残っているという。
雑草が生えて荒れ放題になっているのは、「祟り」を畏れて、だれもこの塚に触ろうとしないからなのだとか(……この塚に角柱をぶっ刺した人は、その後大丈夫だったのだろうか?)。
この塚が本当に「具平親王の墓」であるのかは定かではないが、「祟り」として語り継ぐことで、神聖な領域が汚されるのを防いでいるのかもしれない。
現にこの塚は、今でも取り壊されずに残っているのだから。
平成31年4月7日参拝 ウィルカ
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