フォト

Google AdSence

  • スポンサードリンク
無料ブログはココログ

« ご挨拶 | トップページ | 「二見興玉(ふたみおきたま)神社」 三重県伊勢市 »

2020年2月14日 (金)

「野々大神社」 兵庫県加古川市八幡町

20200210_033439000_ios

野々大神社(ののだいじんじゃ)

主祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
配祀神 なし
建立年 1360年~ごろ?
所在地 兵庫県加古川市八幡町野村612

加古川市の中東部に位置する八幡町「野村」に鎮座する神社。
「国産みの神」である男神「伊邪那岐命」をお祀りしている。

 

*

 

Img_1892「鳥居」

各地の神社でごく普通に見られる「明神鳥居」が、参道入口に1基建立されている。
鳥居の正面の額束(がくづか)には、「野々大神社」の社名が記されている。
向かって左側の柱の裏側には、「平成十七年四月吉日」の記名があり、こちらの鳥居が、神社に奉納されてからまだ10年ほどしか経っていない真新しものであることがわかる。

 

20200210_033639237_ios 「境内」

手水舎や、特別な参道らしきものもない、簡素な境内。
豪奢な境内ではないが、雑木林に隣接した明るい神域は、氏子の方々の手により日ごろからきれいに保たれていることが窺い知れる。 

 

20200210_033612039_ios

「本殿」

野々大神社の祭神である「伊邪那岐命」をお祀りしている本殿。
こちらの神社の由緒について、参道入口の鳥居の脇にある石碑に、以下のような記述がなされている。

野々大神社「四人講祷」
言い伝えによれば我々の先祖は、奈良時代より公家として長く奈良に居住していました。
しかし遷都による奈良地方の凋落や武家の隆盛等の変遷が続き、動乱の南北朝時代に入って行ったのですが、先祖は南朝方であったために冷遇され、西暦一三六〇年頃、やむなく伝手を頼りに寺社や貴族の荘園、或いは守護大名の既存領地を避けてこの地に移り住みました。
当時、この地は水源が無く荒れ野原でしたが、その中に一筋の湧水を見つけ、この水を利用して原野を開墾し、野村を開きました。
この時、一門の繁栄を祈願し、一致団結を誓い合う守護神として「野々大神社」をお祀りしたのが始まりです。
農村の四家「四人講祷」は、馬田氏、八代醍氏、厚見氏、友永氏で紋所「環木瓜中一」を同じくし、四家の男子相続人で村内在住者のみに祷員となる資格が与えられていました。
しかし厳しい規定により祷員が減少し続けたため、昭和二十年代に「全祷員の承認を得ればこの限りではない」と緩和されました。
今も、毎年一月と九月に村の繁栄と安全を祈願し、祭礼を行っております。

20200210_033708177_ios

……南北朝の時代、権力争いに敗れて都を追われた人々がこの地に逃れ、人も住まない荒れ果てた野原だった地を苦労の末に開墾し、「野村」という名の村を開いた。
村を開墾した一門の繁栄を祈願し、一致団結を誓い合う一門の守護神として、「野々大神社」をこの地にお祀りしたのが始まりだという。
ここに村を開いた人々が、八百万の神々の中から「伊邪那岐命」を神社の主祭神としてお祀りした理由が、この碑文を読むことで私も知ることができた。
「伊邪那美命(いざなみのみこと)」とともに、無から日本の国を産み出した国産みの神「伊邪那岐命」の神話に、「野村」の村を産み出した一門の境遇と偉業をなぞらえ、彼らの子孫たちと村の繁栄が、後の世まで未来永劫に続くことを祈願して、伊邪那岐命をこの地にお祀りしたのだろう。

さて、この石碑の碑文の最後には、
<「四人小僧」という昔話が加古川市の民話集に紹介されています。>
という一文が追記されている。

昔。
勘助という名の男が野村に住んでいた。
ある日、隣村からの帰途についていた勘助が道中にある薄暗い森の中に差し掛かると、白装束を身に纏った四人の異形の者たちが突然目の前に姿を現し、勘助の行く手を遮った。
驚いた勘助は、這う這うの体(ほうほうのてい)で何とか村に逃げ帰ったが、その後何度も白装束の四人が森の中に現れ、やがて人々は恐れをなして、その森に近づかなくなってしまった。
村人たちから「四人小僧」と恐れられるようになった白装束の化け物の正体は、森に棲んでいた「狸たち」だった。
しかし、その森を通り抜けなければ、隣町に行くことがどうしてもできない。
困り果てた村人たちは古老に教えを仰ぎ、その言葉通りに、森の中に小さな祠を建てて、そこに季節のお供え物をすることにした。
すると、お供え物はなくなって、それ以降、「四人小僧」も姿を現さなくなったという。

……という話が、「四人小僧」としてこの地に伝わっている昔話である。
狸たちが化けていた「四人小僧」を鎮めるために建てた小さな祠というのが、こちらの「野々大神社」なのだそうだ。

そして現在。
陰気な森の中にあったという「野々大神社」のすぐ目の前には県道が開通し、乗用車や大型トラックが土煙と轟音をあげてひっきりなしに走っている。
おそらく、昔話の中で語られている勘助が隣町から帰ってきた道というのは、この県道のある場所だったのだろう。
今では、神社の裏手と東側に広がる雑木林のみが、700年前は森だっという当時の面影をわずかに残している。

だが、長い年月が過ぎた現在の世でも、「野々大神社」はこの地に変わらず鎮座し、祖先が切り拓いた平和な「野村」の町で暮らしている子孫の方々が、今も神社を手厚く敬っている。

 

令和2年2月10日参拝

 

<付記>

余談だが、神社のすぐ東側に広がっている雑木林は、インターネットの世界では「心霊スポット」にされている。
かつて、その広大な場所には「高田牧場」という名の牧場があり、養豚を営んでいた畜産農家の人たちが住んでいたのだが、一家は何者かに惨殺され、以来、廃墟となったその牧場には、惨殺された一家の幽霊が出るという噂が広がった。(……らしい)

……そのようなわけで、この場所はちょっとした「名所」になり、県外からも多数の人間が「肝試し」に訪れるようになった。
牧場の表門が「城門」のように見えるので、「武家屋敷」という通称で呼ばれているこの牧場跡は、ご丁寧なことに、グーグルマップにも写真とともに場所が投稿されている。
加古川市民である私も、時々この廃墟の前を車で通りすぎることがあるが、少し前までは誰でも入れるようになっていたこの廃墟も、現在では、「立入禁止」と書かれた赤いコーンが門前に置かれているのを目にするようになった。
不逞な輩が屯して敷地内に侵入するためか、市か土地の所有者が「警告」のために設置したのだろう。
他人の土地に無断で入った上にゴミを散らかし、あまつさえ、人様の建物に落書きさえしている有様である。
廃墟とはいえ、他人の土地や家屋に無断で立ち入ることは、れっきとした「犯罪」であることを認識してもらいたい。

一家が惨殺されたというその噂自体も、「眉唾物」だと私は思っている。
私には「霊感」というものはないが、本当に霊感のある人なら、そのような「禍々しい場所」に好んで近づくことはしないだろう。
そしてここには、初めから「幽霊」などいない。
人から忌諱されるそのような場所に集まるのは「幽霊」ではなく、生きている「人間」である。
肝試しに訪れた人間が、そこで事故や事件に巻き込まれ、最悪の場合、命を失って、その場所が本当に「心霊スポット」になってしまうかもしれない。
「死んでいる幽霊」よりも怖いのは、やはり「生きている人間」のほうだろう。

下の写真は、15年前に車で通りがかったときに撮影した当該廃墟の様子。
奇しくも、今回「野々大神社」を訪れた日と同じ「2月10日」であることに気づいたが、その関連性に「霊的」なものなどは一切ない。

Img_0610

Img_0611

Img_0612通称「武家屋敷」(伝「高田牧場」跡) 三枚ともウィルカ撮影(2005年2月10日)




Google AdSence

« ご挨拶 | トップページ | 「二見興玉(ふたみおきたま)神社」 三重県伊勢市 »

参拝神社(兵庫県)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« ご挨拶 | トップページ | 「二見興玉(ふたみおきたま)神社」 三重県伊勢市 »