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2020年3月に作成された記事

2020年3月24日 (火)

「諏訪神社」 静岡県静岡市駿河区

Img_2003

諏訪神社

主祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)
配祀神 八坂刀売神?(やさかとめのかみ)
建立年 不明
所在地 静岡県静岡市駿河区字津ノ谷651

旧「駿河国」に属する「宇津ノ谷峠(うつのやとうげ)」に鎮座している諏訪神社。
主祭神として「建御名方神(たけみなかたのかみ)」をお祀りしている。

 

*

 

Img_2007「鳥居」

石製のりっぱな「明神鳥居」。
向かって左側の柱の裏側に、「平成九年五月吉日 氏子一同 建之」という朱書きの刻印があり、現代になって建立された新しい鳥居であることが知れる。
神社の西隣は民家の敷地になっており、民家の所有車と思われる2台の軽トラックが鳥居のすぐそばに止められていた。

 

Img_2004「境内」

境内は桧の木が立ち並び、苔むした一本の参道が、鳥居から拝殿まで真っすぐに続いている。Img_2005何という名前の植物なのかはわからないが、蘭の花に似た紫色の愛らしい花が、境内の片隅で寄り添うように咲いていた。

 

Img_2003「拝殿」

手入れの行き届いた木造の拝殿。
そのさらに奥側の聖域に、諏訪神社のご神体をお祀りしている本殿が厳かに鎮座している。
拝殿の正面には注連縄(しめなわ)が飾られていたが、賽銭箱や鈴緒などはなく、「静岡県神社庁」から奉納された「天皇陛下御即位」の垂れ幕が掲げられていた。

 

Img_2008「本殿」

拝殿の奥に鎮座している木造の本殿。
瓦のない「銅板葺(どうはんぶき)」で施工され、全国の神社の本殿でもっとも一般的に見られる「流造(ながれづくり)」の様式で建立されている。
「流造」は、伊勢神宮に代表される「神明造(しんめいづくり)」から発展した神社建築様式のひとつで、開いた本を伏せた形に見立てた屋根の面側=「平(ひら)」側に入口があり(「平入(ひらいり)」)、反った正面の屋根を平入まで延ばしているのが特徴となっている。

これに対して、出雲大社に代表される「大社造(たいしゃづくり)」は、屋根の三角形に見える部分=「妻(つま)」側に入口がある「妻入(つまいり)」の構造で、入口の階段の上にもうひとつの屋根が設けられているのが特徴である。
「諏訪神社」の総本社は長野県の諏訪市にある「諏訪大社」であるので、こちらの本殿も「大社造」で造られているものと思ったが、調べてみると、諏訪大社の本殿も「大社造」ではなく、こちらのお社とほぼ同じ建築様式で建立されていることがわかった。
「流造」ではなく、諏訪神社独自のものであるのかもしれない。
ともかくも、総本社に倣って建立された本殿であることは間違いない。(もしも誤りがある場合は、ご指摘・ご教示いただければ幸いです)

「静岡県神社庁」のウェブサイトでこちらの神社を調べてみたが、鎮座している住所が掲載されているだけで、主祭神などの詳しい情報は記されていなかった。
「鍛冶の神」と「水の神」であり、また「風の神」でもある「建御名方神」をお祀りしていることは明らかだが、境内摂社はなく、「建御名方神」の妃神である「八坂刀売神」もこちらで併せてお祀りしているのかは不明である。

 

令和2年3月22日参拝

 

 

<付記>

「宇津ノ谷峠を歩いて」

先述のように、こちらの「諏訪神社」が鎮座している一帯は「宇津ノ谷峠」と呼ばれ、旧東海道の「鞠子(まりこ)宿」※と「岡部(おかべ)宿」の間にある難所のひとつでもあった。※「丸子」とも書かれる
宇津ノ谷峠には、江戸時代に整備された「東海道五十三次」の正規の宿場町には数えられない、中継地的な役割を担う「間の宿(あいのしゅく)」が設けられ、宿泊はできないものの、峠越えを行う旅人たちが一息を入れる場所として栄えた。
当時の「間の宿」の面影を色濃く残している「宇津ノ谷集落」の家並みが現在も保存されており、街道沿いには、江戸時代の屋号のまま今も営業を続けている店が多く立ち並ぶ。
また、周辺には「明治のトンネル」や「蔦の細道」などの史跡も数多く点在していて、これらの史跡を巡りながら往時の歴史を偲ぶことができる。

 

Img_1994「蔦の細道」

北端にあたる「静岡口」入り口付近。
「宇津の山越え」と呼ばれた「蔦の細道」は、平安時代から戦国時代までの約700年間、宇津ノ谷峠を越える官道として使用されていた。
「在原業平」をはじめとする多くの歌人や著名人たちも数知れず通った道であったが、蔦の細道よりも峠越えが容易い旧東海道が豊臣秀吉によって整備された後は、近年になって発掘・整備保存されるまで数百年の間、廃道となって山間深くに埋もれていた。
写真に見られる階段は、現代になって設置されたものと思われる。
「伝馬の道」としても利用されたが、「犬」も通ったのかどうかは定かではない(笑)

 

Img_2021

Img_2024 「旧東海道」

岡部宿方面(写真上)と、宇津ノ谷集落のある鞠子宿方面(写真下)。

 

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Img_2031「峠の地蔵堂跡」

間の宿だった宇津ノ谷集落付近の旧街道脇に、2メートル四方と5メートル四方の二つの地蔵堂跡が発掘された。
年代的に、小さいほうが「古い地蔵堂」で、大きいほうの地蔵堂は、石垣が設けられて平地が拡大された後(下の写真)に建立された「新しい地蔵堂」だと考えられている。
江戸時代末期の歌舞伎脚本作家、「河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)」が創作した『蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)』の舞台となった地でもあり、作中に登場する盲人「文弥」が、所持していた百両を目当てに「伊丹屋十兵衛」によって殺害された場所が、この地蔵堂前となっている。

峠の地蔵堂跡の写真を撮ろうとしたとき、なぜだか急にスマートフォンのカメラが切れ作動しなくなってしまった。
「地蔵堂で殺された地縛霊の怨念が……」
……などと、自称「霊能者」がその場に居合わせたら嬉々として言い出しそうなセリフだが、単にスマートフォンの機嫌が悪くなっただけで(笑)、「心霊現象」でもなんでもないので悪しからず。

 

Img_2032「雁山の墓(がんざんのはか)」

松尾芭蕉の同門の俳人であった「雁山」が、享保12年(1727年)ごろに旅に出たまま音信不通となってしまったため、旅先で亡くなったものと思った歌人たちが、故人となった雁山を偲んで建立した墓標。
墓標には、「雁山墓」の募名とともに、「享保十五 戌年」、「六月上旬」という、享年と建立日を示したと思われる文字が刻まれている。
しかし、実際には雁山は亡くなっておらず、その後も『有度日記』や『駿河百韻』などの書を著したあと、明和4年(1767年)に甲府の地で82歳の生涯を閉じた。

 

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Img_2009集落近くの竹林に囲まれた旧街道(写真上)と地蔵(写真中)、諏訪神社近くの道端にお祀りされていた地蔵(写真下)。
道中の安全を願った昔の旅人たちがそうしたように、私もまた、今も道行く人々を見守っている小さな「お地蔵さん」に手を合わせた。

 

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Img_2002「宇津ノ谷集落」

岡部方面から宇津ノ谷峠を降ってくると、写真上のような「宇津ノ谷集落」の屋根が眼下に見えてくる。
息を切らせて険しい峠道を越えてきた当時の旅人たちも、現在と変わらずに峠の途中で見えていたであろうこの光景に、ほっと息が出たに違いない。
写真下は、反対側の丸子(静岡)方面から臨んだ宇津ノ谷集落の入り口。
アンティークな雰囲気の石畳で舗装された旧街道が、集落の両端の入り口を繋いでいる。
集落の店では、江戸時代のころから続く峠名物の「十団子」が今も売られている。

 

Img_2014

Img_2016

Img_2018

Img_2019「明治のトンネル」

「岡部口」入口(写真上)、トンネル内部(写真中2枚)、「静岡口」入口(写真下)。
明治9年(1876年)に開通したレンガ造りのレトロなトンネル。
正式名称は「明治宇津ノ谷隧道」で、「登録有形文化財」(第22-0002号)として保存されている。
長さ230メートル、工費3万5000円、工事に要した延べ人夫は21万人であったことが、「長田西自治会連合会」が設置している手書きの案内版に記されている。
「日本初の有料トンネル」として開通したものの、岡部口と静岡口がそれぞれ異なる工法で掘り進められたうえに、当時の測量技術と掘削技術の未熟さも相まって、本来意図した通りに貫通せず、トンネルの中央部で「くの字」に折れ曲がった歪(いびつ)なトンネルとなってしまった。
その後、トンネル内に多数吊るされたカンテラの失火が原因でトンネルの一部が焼失し、明治37年(1904年)に、現在のような直線で結ばれたレンガ造りのトンネルに修復・改修され、再開通を果たした。

トンネルの内部は、カンテラの優しいアンバーの光に照らし出された錆色とモスグリーンのレンガが織り重なって、西洋の教会の壁面に描かれたモザイク画を思わせるような、幻想的なレンガのアートを生みだしていた。
当時の人たちがひとつひとつ積み上げたレンガの壁面に、たった独りだけの足音が共鳴する、薄暗くて静かな空間。
トンネルを歩いていると、まるで母の胎内にいるかのような、安らいだ幸せな気分に包まれた。

……しかしながら、「峠の地蔵堂跡」のときと同じように、写真を撮ろうとすると、ここでもまた手持ちのスマートフォンのカメラに「異変」が起きた。
カメラのボタンを押してから実際に撮影されるまでの時間が、異様に長いのである。
後日、気になって、この「明治のトンネル」についてネットで調べてみると、案の定、「心霊スポット」にされていた(笑)。
そりゃあ、人気のない深夜にこんなところを訪れたら、誰だって「怖い」と感じるでしょうよ?
ちょっとした物音や自分の影にも驚いてしまうだろう。
それを、なんでもかんでも「霊のせい」だと決めつけて、一方的に「心霊スポット」と呼んで興味本位にこの場所を訪れるのは、このトンネルを苦心して作り上げた先人たちと、死者に対する「冒涜」ではなかろうか?

 

Img_2010

Img_2011「大正のトンネル」

静岡側入口(写真上)と、トンネル内部(写真下)。
「明治のトンネル」に次いで、昭和5年(1930年)に開通した近代的なトンネルで、大正末期の1926年に着工されたため、「大正のトンネル」と呼ばれている。
正式な名称は、「宇津ノ谷隧道(昭和第一トンネル)」。
全長227メートル、幅員7.3メートル、高さ4.4メートルあるこのトンネルは、現代の大型車の通行も可能なほどで、今でも十分に通用する規格となっている。

 

Img_1995「昭和のトンネル」と「平成のトンネル」

静岡側入口の「昭和のトンネル」(写真の向かって右側)と、「平成のトンネル」(写真の向かって左側)。
「明治のトンネル」、「大正のトンネル」に次いで、昭和34年(1959年)に「昭和のトンネル」が開通し、それから39年後の平成10年(1998年)に、「昭和のトンネル」の南側に平行して「平成のトンネル」が開通した。
それぞれの正式名称は、「新宇津ノ谷隧道(昭和第二トンネル)」、「平成宇津ノ谷トンネル」で、トンネルの長さは844メートルおよび881メートルとなっている。
ともに2車線の道路を内包しているこれらのトンネルは、現在では北側の「昭和のトンネル」が国道1号線上り用に、南側の「平成のトンネル」が国道1号線下り用として使用されている。

 

Img_1997

かつての難所だった「宇津ノ谷峠」も、トンネルを自動車で走れば、今では1分もかからずに通り抜けることができる。
人間一人がやっと歩けるほどの心細い「蔦の細道」や、馬がなんとか登れるほどの狭い「旧東海道」を自らの脚でゆっくりと往来していた当時の人たちが、人間や馬に代わって猛スピードで駆け抜けている「現代の道路」を見たら、いったいなんと言うだろう?
宇津ノ谷峠に鎮座している「諏訪神社」の神様は、今の世を生きている人間たちが誰一人として地上からいなくなったあとも、時代の移り代わりを静かに見守ってゆくに違いない。

(了)




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2020年3月16日 (月)

「松本稲荷神社」 兵庫県明石市魚住町

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松本稲荷神社

主祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)?
配祀神 なし(地蔵菩薩)
建立年 不明
所在地 兵庫県明石市魚住町

明石市の西端の街、魚住(うおずみ)の野池の傍に鎮座している、私設?の稲荷社。

*

 

20200309_072726512_ios「鳥居」と「本殿」

朱色の鳥居の背後に、コンクリート製の拝殿に覆われた木造の本殿が納められている。
鳥居の形状は、神宮に代表される「神明鳥居(しんめいとりい)」に似ているが、鳥居最上部の「笠木(かさぎ)」と平行して設けられている「貫(ぬき)」が柱の両端から突き出ていて、なおかつ、貫と柱とが交差する箇所に「楔(くさび)」も設けられてあり、神明鳥居のそれとは異なる。
いっぽう、笠木と貫の間には「松本稲荷」と称された「額束(がくづか)」があり、「明神鳥居」のようにも見えるが、笠木の下にあるはずの「島木(しまぎ)」が存在せず、笠木の両端が反り返っていないため、明神鳥居とも形状が違っている。
柱の裏側に「平成二十六年三月吉日」と記銘があり、近年になって独自の様式で制作・奉納された鳥居だと思われる。

また、こちらのお社は、どんな小さな神社も漏れなく掲載されている「兵庫県神社庁」のウェブサイトにも、その場所や情報が一切記載されていない。
額束に記されている「松本稲荷」を調べてみたが、目ぼしい情報を得ることはできなかった。
「稲荷神社」の御名があるので、「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」か「保食神(うけもちのかみ)」のどちらかの神様をお祀りしているお社であることは間違いないが、企業の敷地内や個人の邸宅に見られるような「私設の稲荷社」なのではないかとも考えられる。

 

20200309_072749314_ios鳥居の手前のスペースには、コンクリートで舗装された小さな参道の両脇に「百度石」と「手水舎」が設けられている。
地面に残されているドーナツ状のものは、鳥居の柱を支えていた基礎の一部なのだろうか?
手水舎には、「昭和六年一月 〇〇人 山崎は〇」(〇の部分は判読不明。「奉納人」? 「はる」?)と彫られていた。
「山崎はる」?という女性?が、こちらの稲荷社を建立した方なのかもしれないが、情報がない今となっては、私には知るすべもない。
昭和六年(1931年)といえば、今から89年前であり、成人されてから手水舎を奉納されたとすれば現在は109歳で、ご存命されている可能性は極めて低い。
しかしながら、「山崎はる」さんのお名前は、手水舎が撤去されない限り、私たちが死んでからもこちらのお社とともに残り続けるだろう。

 

20200309_073408921_ios本殿の脇に建立されている「地蔵堂」。
真新しいお茶とお菓子がお供えされている。
ほかの神様や仏様の名前は知らなくても、「お稲荷さん」と「お地蔵さん」の名は、日本人なら子供から大人まで誰もが知っているだろう。
「仏教」では、「如来(にょらい)」に次ぐ「菩薩(ぼさつ)」の名を持ちながら、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)にあるすべての魂の救済を成し遂げるために、その名を捨て、唯一人、地上に残った仏=「地蔵菩薩(じぞうぼさつ)」。
「地母神」や「道祖神」とも習合され、「子供の守り神」としても篤く信仰されている「お地蔵さん」は、神道の「お稲荷さん」とともに、人々からもっとも愛されている「神様」と「仏様」だろう。

 

20200309_072958063_ios野池の南側の小さな一角に、時代の変遷と周囲の開発から取り残されたようにして「松本稲荷神社」が存在している。
神社の数百メートルほど北側には、「加古川バイパス(国道2号線)」と「第二神明道路」を繋ぐ「明石西インターチェンジ」があり、インターチェンジを乗り降りする自動車が、神社のすぐ西側に通じている「県道514号線」を蟻の群れのように往来している。
この「県道514号線」は、バイパスを越えた先で「県道84号線」となり、その道を北に5~6キロメートルほど進むと、加古川市八幡町の集落に建立された「大歳神社」に辿り着く。
近くには、かつてはドライブインだった複合型の大型商業施設があるが、こちらの神社にわざわざ足を運んでお参りする人はほとんどいない。
隣町に住んでいる私も、明石西インターから車で降りてくるときにいつも車窓から見えていた「名前も知らない小さな神社」の存在は、以前からずっと気になっていたものの、とくに訪れることはしなかった。
今回故あって、こちらの神社にお参りできたことは「ありがたい」ことである。
たとえこちらのお社が、個人により建立された神社であったとしても。

 

令和2年3月9日参拝




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2020年3月 5日 (木)

「生田(いくた)神社」 兵庫県神戸市

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「生田神社」御朱印 令和2年2月3日拝受

初穂料:500円から
「生田神社」は、兵庫県の県庁所在地かつ県下最大の都市、神戸市の中心地「三宮(さんのみや)」に鎮座する式内社で、「稚日女尊(わかひるめのみこと)」を主祭神としてお祀りしている。
生田神社の解釈によると、「稚日女尊」は、「天照大御神」の和魂(にぎみたま)であるとも、妹神であるともされている。

三韓外征の帰途にあった「神功(じんぐう)皇后」の船が、現在の神戸港の沖合で進まなくなり、神占(しんせん)を行ってみたところ、「稚日女尊」がお姿を現した。
「私は、活田長峡国(いくたながおのくに)に居たい」と稚日女尊が申されたので、「海上五十狭茅(うながみのいさち)」によって祀られたとされる。
その地が、「生田神社」である。

境内摂社に「市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)」をお祀りしている生田神社は、「神戸七福神」の一社に数えられており、写真上の「生田神社」の御朱印とは別に、写真下の市杵島比売命=「弁財天」の御朱印も拝受することができる。(初穂料は同じく500円から)

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「弁財天」御朱印 令和2年2月3日拝受




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2020年3月 3日 (火)

「日岡(ひおか)神社」 兵庫県加古川市

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令和2年1月28日拝受

初穂料:300円から
兵庫県の一級河川「加古川(かこがわ)」の下流東岸に鎮座する「式内社」……平安時代に編纂された『延喜式神名帳』に記載されている由緒ある神社で、主祭神に「天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)」をお祀りしている。
「天伊佐佐比古命」は、第10代「崇神(すじん)天皇」の御代に、山陽地方に派遣された「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」であると言われ、鬼退治の昔話で有名な「桃太郎」のモデルともされている。
配祀神として、「豊玉比売命(とよたまひめのみこと)」、「鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)」、「天照大御神」、「市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)」の四柱を、本殿と同じ社殿の相殿(あいどの)に合祀している。

第12代「景行天皇」の皇后である「播磨稲日大郎姫命(はりまのいなひのおおいらつめのみこと)」が御子を身籠った際、「天伊佐佐比古命」が七日七晩の間、皇后の御安産を祈祷したところ、加古川の美乃利(みのり)の地で無事に双子の皇子を御出産された。
以来、日岡神社は、とくに「安産の神様」として地域の人たちに深く信仰されるようになった。
双子の皇子の一人、弟の「小碓命(おうすのみこと)」が、のちに「熊襲(くまそ)討伐」などで名を馳せることになる「倭建命(やまとたけるのみこと)」であり、日岡神社の東の「日岡御陵」には、母である「播磨稲日大郎姫命」がお祀りされている。
「神話」の中で語られる神が、自分の住んでいる地元の土地と深い関りがあることを思うと、非常に感慨深いものがある。




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