フォト

Google AdSence

  • スポンサードリンク
無料ブログはココログ

カテゴリー「参拝神社(兵庫県)」の記事

2020年6月30日 (火)

「大森神社」 兵庫県朝来市和田山町

20200312_020738749_ios

大森神社

主祭神 宇摩志麻治命(うましまじのみこと)
配祀神 なし
建立年 不明
所在地 兵庫県朝来市和田山町白井1045

兵庫県北部の朝来(あさご)市 和田山町に所在する村社。

<概要>

「本殿」:一社(流造)
「拝殿」:一棟(日吉造に似せられている)
「摂社」:三社(平入二社、妻入一社)
「鳥居」:二基(平入の摂社のうち一社に朱塗りの木製の明神鳥居一基、境内外の参道入口に石製の明神鳥居一基が建立されている)
「境内」:狛犬、手水舎、石灯篭、記念碑などの建立物数基あり
「その他」:境内入口に遥拝所あり 本殿および摂社に「十六弁菊花紋」の神紋あり

付記:
『明治6年(1873)10月村社に列せられ昭和5年(1930)社殿を改築せり』
「兵庫県神社庁」ウェブサイトより)

 

「鳥居(外鳥居)」
Img_1985

Img_1990

 

「遥拝所」
Img_1981

 

「境内」
Img_1980

Img_1976

Img_1978

 

「拝殿」
20200312_020738749_ios

 

「本殿」
Img_1974

 

「摂社」
Img_1969

Img_1970

Img_1971

 

令和2年3月12日参拝




Google AdSence

2020年3月16日 (月)

「松本稲荷神社」 兵庫県明石市魚住町

20200309_073647859_ios

松本稲荷神社

主祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)?
配祀神 なし(地蔵菩薩)
建立年 不明
所在地 兵庫県明石市魚住町

明石市の西端の街、魚住(うおずみ)の野池の傍に鎮座している、私設?の稲荷社。

*

 

20200309_072726512_ios「鳥居」と「本殿」

朱色の鳥居の背後に、コンクリート製の拝殿に覆われた木造の本殿が納められている。
鳥居の形状は、神宮に代表される「神明鳥居(しんめいとりい)」に似ているが、鳥居最上部の「笠木(かさぎ)」と平行して設けられている「貫(ぬき)」が柱の両端から突き出ていて、なおかつ、貫と柱とが交差する箇所に「楔(くさび)」も設けられてあり、神明鳥居のそれとは異なる。
いっぽう、笠木と貫の間には「松本稲荷」と称された「額束(がくづか)」があり、「明神鳥居」のようにも見えるが、笠木の下にあるはずの「島木(しまぎ)」が存在せず、笠木の両端が反り返っていないため、明神鳥居とも形状が違っている。
柱の裏側に「平成二十六年三月吉日」と記銘があり、近年になって独自の様式で制作・奉納された鳥居だと思われる。

また、こちらのお社は、どんな小さな神社も漏れなく掲載されている「兵庫県神社庁」のウェブサイトにも、その場所や情報が一切記載されていない。
額束に記されている「松本稲荷」を調べてみたが、目ぼしい情報を得ることはできなかった。
「稲荷神社」の御名があるので、「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」か「保食神(うけもちのかみ)」のどちらかの神様をお祀りしているお社であることは間違いないが、企業の敷地内や個人の邸宅に見られるような「私設の稲荷社」なのではないかとも考えられる。

 

20200309_072749314_ios鳥居の手前のスペースには、コンクリートで舗装された小さな参道の両脇に「百度石」と「手水舎」が設けられている。
地面に残されているドーナツ状のものは、鳥居の柱を支えていた基礎の一部なのだろうか?
手水舎には、「昭和六年一月 〇〇人 山崎は〇」(〇の部分は判読不明。「奉納人」? 「はる」?)と彫られていた。
「山崎はる」?という女性?が、こちらの稲荷社を建立した方なのかもしれないが、情報がない今となっては、私には知るすべもない。
昭和六年(1931年)といえば、今から89年前であり、成人されてから手水舎を奉納されたとすれば現在は109歳で、ご存命されている可能性は極めて低い。
しかしながら、「山崎はる」さんのお名前は、手水舎が撤去されない限り、私たちが死んでからもこちらのお社とともに残り続けるだろう。

 

20200309_073408921_ios本殿の脇に建立されている「地蔵堂」。
真新しいお茶とお菓子がお供えされている。
ほかの神様や仏様の名前は知らなくても、「お稲荷さん」と「お地蔵さん」の名は、日本人なら子供から大人まで誰もが知っているだろう。
「仏教」では、「如来(にょらい)」に次ぐ「菩薩(ぼさつ)」の名を持ちながら、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)にあるすべての魂の救済を成し遂げるために、その名を捨て、唯一人、地上に残った仏=「地蔵菩薩(じぞうぼさつ)」。
「地母神」や「道祖神」とも習合され、「子供の守り神」としても篤く信仰されている「お地蔵さん」は、神道の「お稲荷さん」とともに、人々からもっとも愛されている「神様」と「仏様」だろう。

 

20200309_072958063_ios野池の南側の小さな一角に、時代の変遷と周囲の開発から取り残されたようにして「松本稲荷神社」が存在している。
神社の数百メートルほど北側には、「加古川バイパス(国道2号線)」と「第二神明道路」を繋ぐ「明石西インターチェンジ」があり、インターチェンジを乗り降りする自動車が、神社のすぐ西側に通じている「県道514号線」を蟻の群れのように往来している。
この「県道514号線」は、バイパスを越えた先で「県道84号線」となり、その道を北に5~6キロメートルほど進むと、加古川市八幡町の集落に建立された「大歳神社」に辿り着く。
近くには、かつてはドライブインだった複合型の大型商業施設があるが、こちらの神社にわざわざ足を運んでお参りする人はほとんどいない。
隣町に住んでいる私も、明石西インターから車で降りてくるときにいつも車窓から見えていた「名前も知らない小さな神社」の存在は、以前からずっと気になっていたものの、とくに訪れることはしなかった。
今回故あって、こちらの神社にお参りできたことは「ありがたい」ことである。
たとえこちらのお社が、個人により建立された神社であったとしても。

 

令和2年3月9日参拝




Google AdSence

2020年2月28日 (金)

「山ノ神社」 兵庫県加古川市八幡町

20200210_042721299_ios

山ノ神社(やまのじんじゃ)

主祭神 大山津見神(おおやまつみのかみ)
配祀神 大年神?(おおとしのかみ)
建立年 不明
所在地 兵庫県加古川市八幡町下村294

加古川市八幡町下村の集落の、小さな山に鎮座する山神社。
山の神である「大山津見神(おおやまつみのかみ)」を祀っている。

 

*

 

Img_1903「参道入口」

加古川市八幡町野村の「大歳神社」の西側を通っている県道84号線を北に進み、野村の交差点を少し上がった脇道を左に曲がり、田んぼに囲まれた農道を西に1kmほど進むと、下村の集落に突き当たる。
集落の南西にある小さな山の麓に、「山ノ神社」へと続く山道の入り口が設けられている。
グーグルマップ上に表示されている「山ノ神社」のラベルを目的地に指定すると、神社までの経路を正確に示してくれるが、なんの情報もなければ、ここが神社の参道だとは気がつかないだろう。

 

Img_1906 九十九折(つづらおり)の山道の途中に設けられたコンクリートブロックの階段。

20200210_042721299_ios 細い山道をさらに数十メートルほど登ると、山の頂上と思しき聖域に鎮座している「山ノ神社」に辿り着く。

 

Img_1904 「本殿」

比較的新しい時期に建てられたと思われる現代的な拝殿の内部に、「大山津見神」をお祀りしている小さな本殿が納められている。
「兵庫県神社庁」のウェブサイトの地図には、「山ノ神社」とほぼ同じ位置に「大歳神社」の名称が記載されていた。
境内摂社として「大歳神社」が建立されているのかもしれないと思い、本殿の周囲を伺ってみたが、それらしき別のお社は見当たらなかった。
もしかすると、こちらが「大歳神社」で、「山ノ神社」は別の場所に存在するのかもしれない。
しかしながら、山の頂上に本殿が建立されていることから推測すると、やはりこちらのお社が、山の神である「大山津見神」をお祀りしている「山ノ神社」なのだろう。
(もし違っていた場合はお詫びいたします。また、その際はご指摘いただければ幸いです)

 

<おわりに>

「山ノ神社」の西側に、「東播磨南北道路(県道18号線)」の八幡稲美ランプの出入り口が設けられている。
加古川市内の加古川バイパスから小野市内の国道175号線に至る道路として建設中のこの県道は、令和2年現在では終点となっている八幡稲美ランプ付近で南西方向から緩やかに東へ折れ曲がり、「山ノ神社」が鎮座している山を中央付近で東西に分断するように突き抜けて、小野市内の国道175号線を目指して北東方面へと延伸する予定になっている。
現在は、「山ノ神社」の山の南側の一部を切り崩して、バイパス橋脚の敷設工事が進められている。

Img_1908

Img_1907

建設中の「東播磨南北道路」
加古川方面(写真上)と小野方面(写真下)
令和2年2月10日撮影

この自動車道が全線開通すれば、加古川市と小野市を結ぶ狭い幹線道路をやむなく通行している大型自動車のほとんどはこの道を通行することになり、生活道路として幹線道路を日常的に利用している沿線住民の方々の安全も確保されるだろう。
道路工事をされている関係者の皆様のご安全を願うとともに、ご神体である神奈備(かんなび)の山の一部を切り分けて、道路の敷設を許していただいている「山ノ神社」の神様に、道路を利用している市民の一人として心から感謝いたします。

令和2年2月10日参拝




Google AdSence

2020年2月20日 (木)

「大歳神社」 兵庫県加古川市八幡町

20200210_035512816_ios

「大歳神社」

主祭神 大年神
配祀神 なし
建立年 不明
所在地 兵庫県加古川市八幡町野村363

兵庫県加古川市八幡町の「野村」の集落の片隅に建立されている小さな祠。
「大年神(おおとしのかみ)」をお祀りしている。

 

*

 

20200210_035406493_ios 「本殿」

高さ140センチほどの石製の本殿。
墓石などと同じ御影石(花崗岩?)が使われている本殿は、見た目もさることながら、様式も現代風で新しく、かつて同じ場所に存在していたと思われる古い木造の本殿を、こちらの新しい石製のものに作り替えたのだろうと推測される。
「兵庫県神社庁」によると、こちらの神社にお祀りされている祭神は、豊年を司る穀物神の「大年神(おおとしのかみ)」で、「大歳神社」と記されている。
「須佐之男命(すさのおのみこと)」の子である「大年神」は、同じ穀物神である女神「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」と兄妹の関係にある神であり、秋田県の「ナマハゲ」などと同じ、毎年の正月に村の家々を訪ねまわる「来訪神」でもある。
「お稲荷さん」として信仰されている妹の「宇迦之御魂神」と同じく、兄の「大年神」もまた、村や町に暮らす民衆たちに最も身近に親しまれてきた神様であろう。

 

20200210_035307879_ios 「青面金剛」

大歳神社のすぐ南側に隣接する土地には、仏教の「青面金剛明王(しょうめんこんごうみょうおう)」を祀る祠が建立されている。
祠の向かって左脇にある古い石碑に、その御名を示す「青面金剛」の文字が彫られている。
祠を戴いている台座と祭壇は、大歳神社本殿と同様に新しい様式のもので、もともとあった古い祠の下に、あとから据え付けられたものだと考えられる。
お祀りされている「青面金剛」は、人間の体内に棲むと伝えられる「三尸(さんし)」と呼ばれる悪虫を押さえる神(仏)とされ、もともとは、中国の「道教」の思想に由来する異教の神であった。
仏教では、「天部(てんぶ)」、「明王(みょうおう)」、「菩薩(ぼさつ)」、「如来(にょらい)」に分かれた四つの神格があり、異教の神であった「明王」に属する「青面金剛」は、ほかの「不動明王」や「孔雀明王」などとともに、「仏教に帰依しない者を教化し、仏界を脅かす煩悩や悪を調伏し、仏教を守護する仏」と説かれている。

 

20200210_035432515_ios 「境内」

写真手前側が「大歳神社」の境内、向かって左奥の少し高くなっている場所が、「青面金剛」をお祀りしている祠の境内となっている。
どちらの境内にも、本殿のほかには鳥居も何もなく、県道沿いの細長い草地に、小さな祠だけがぽつんと並んで鎮座してている。
大歳神社本殿の手前の土地は少し盛り上がっており、そこに何らかの建物があったことを思わせる遺構らしきものが見られる。

<終わりに>
兵庫県神社庁のサイト内に掲載されている「大歳神社」の住所は、「加古川市八幡町野村字谷口359」となっているが、実際には少し南側に外れた場所に「大歳神社」がある。
一般に公開されているグーグルマップには、こちらの「大歳神社」の位置情報は掲載されていなかった。
本記事冒頭に記載されている「兵庫県加古川市八幡町野村363」という住所は、兵庫県神社庁のマップをもとに現地を訪れた私が、グーグルマップに情報の公開を申請したときに表記された住所である。
本来の「大歳神社」は、兵庫県神社庁のマップに示された位置に存在していたのだろう。
しかしながらその場所は、現在では「畑」のようになっている。
上の写真に見えているガードレールは、神社のうしろに通っている「県道84号線」のものであり、かつてはその道路上に神社があり、県道の建設のために本殿を現在の場所に移設したのかもしれない。
県道84号線は私もよく利用する道路だが、兵庫県神社庁のサイトを見るまでは、このようなところに神社があるとはまったく知らなかった。
おそらく、だれかに教えてもらわない限り、私は今後もずっと神社の存在を知らずに、車で県道を通り過ぎていたことだろう。

こちらのお社にお参りさせていただく機会を与えてくれた兵庫県神社庁と神様に、心から御礼を申し上げます。

 

令和2年2月10日参拝




Google AdSence

2020年2月14日 (金)

「野々大神社」 兵庫県加古川市八幡町

20200210_033439000_ios

野々大神社(ののだいじんじゃ)

主祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
配祀神 なし
建立年 1360年~ごろ?
所在地 兵庫県加古川市八幡町野村612

加古川市の中東部に位置する八幡町「野村」に鎮座する神社。
「国産みの神」である男神「伊邪那岐命」をお祀りしている。

 

*

 

Img_1892「鳥居」

各地の神社でごく普通に見られる「明神鳥居」が、参道入口に1基建立されている。
鳥居の正面の額束(がくづか)には、「野々大神社」の社名が記されている。
向かって左側の柱の裏側には、「平成十七年四月吉日」の記名があり、こちらの鳥居が、神社に奉納されてからまだ10年ほどしか経っていない真新しものであることがわかる。

 

20200210_033639237_ios 「境内」

手水舎や、特別な参道らしきものもない、簡素な境内。
豪奢な境内ではないが、雑木林に隣接した明るい神域は、氏子の方々の手により日ごろからきれいに保たれていることが窺い知れる。 

 

20200210_033612039_ios

「本殿」

野々大神社の祭神である「伊邪那岐命」をお祀りしている本殿。
こちらの神社の由緒について、参道入口の鳥居の脇にある石碑に、以下のような記述がなされている。

野々大神社「四人講祷」
言い伝えによれば我々の先祖は、奈良時代より公家として長く奈良に居住していました。
しかし遷都による奈良地方の凋落や武家の隆盛等の変遷が続き、動乱の南北朝時代に入って行ったのですが、先祖は南朝方であったために冷遇され、西暦一三六〇年頃、やむなく伝手を頼りに寺社や貴族の荘園、或いは守護大名の既存領地を避けてこの地に移り住みました。
当時、この地は水源が無く荒れ野原でしたが、その中に一筋の湧水を見つけ、この水を利用して原野を開墾し、野村を開きました。
この時、一門の繁栄を祈願し、一致団結を誓い合う守護神として「野々大神社」をお祀りしたのが始まりです。
農村の四家「四人講祷」は、馬田氏、八代醍氏、厚見氏、友永氏で紋所「環木瓜中一」を同じくし、四家の男子相続人で村内在住者のみに祷員となる資格が与えられていました。
しかし厳しい規定により祷員が減少し続けたため、昭和二十年代に「全祷員の承認を得ればこの限りではない」と緩和されました。
今も、毎年一月と九月に村の繁栄と安全を祈願し、祭礼を行っております。

20200210_033708177_ios

……南北朝の時代、権力争いに敗れて都を追われた人々がこの地に逃れ、人も住まない荒れ果てた野原だった地を苦労の末に開墾し、「野村」という名の村を開いた。
村を開墾した一門の繁栄を祈願し、一致団結を誓い合う一門の守護神として、「野々大神社」をこの地にお祀りしたのが始まりだという。
ここに村を開いた人々が、八百万の神々の中から「伊邪那岐命」を神社の主祭神としてお祀りした理由が、この碑文を読むことで私も知ることができた。
「伊邪那美命(いざなみのみこと)」とともに、無から日本の国を産み出した国産みの神「伊邪那岐命」の神話に、「野村」の村を産み出した一門の境遇と偉業をなぞらえ、彼らの子孫たちと村の繁栄が、後の世まで未来永劫に続くことを祈願して、伊邪那岐命をこの地にお祀りしたのだろう。

さて、この石碑の碑文の最後には、
<「四人小僧」という昔話が加古川市の民話集に紹介されています。>
という一文が追記されている。

昔。
勘助という名の男が野村に住んでいた。
ある日、隣村からの帰途についていた勘助が道中にある薄暗い森の中に差し掛かると、白装束を身に纏った四人の異形の者たちが突然目の前に姿を現し、勘助の行く手を遮った。
驚いた勘助は、這う這うの体(ほうほうのてい)で何とか村に逃げ帰ったが、その後何度も白装束の四人が森の中に現れ、やがて人々は恐れをなして、その森に近づかなくなってしまった。
村人たちから「四人小僧」と恐れられるようになった白装束の化け物の正体は、森に棲んでいた「狸たち」だった。
しかし、その森を通り抜けなければ、隣町に行くことがどうしてもできない。
困り果てた村人たちは古老に教えを仰ぎ、その言葉通りに、森の中に小さな祠を建てて、そこに季節のお供え物をすることにした。
すると、お供え物はなくなって、それ以降、「四人小僧」も姿を現さなくなったという。

……という話が、「四人小僧」としてこの地に伝わっている昔話である。
狸たちが化けていた「四人小僧」を鎮めるために建てた小さな祠というのが、こちらの「野々大神社」なのだそうだ。

そして現在。
陰気な森の中にあったという「野々大神社」のすぐ目の前には県道が開通し、乗用車や大型トラックが土煙と轟音をあげてひっきりなしに走っている。
おそらく、昔話の中で語られている勘助が隣町から帰ってきた道というのは、この県道のある場所だったのだろう。
今では、神社の裏手と東側に広がる雑木林のみが、700年前は森だっという当時の面影をわずかに残している。

だが、長い年月が過ぎた現在の世でも、「野々大神社」はこの地に変わらず鎮座し、祖先が切り拓いた平和な「野村」の町で暮らしている子孫の方々が、今も神社を手厚く敬っている。

 

令和2年2月10日参拝

 

<付記>

余談だが、神社のすぐ東側に広がっている雑木林は、インターネットの世界では「心霊スポット」にされている。
かつて、その広大な場所には「高田牧場」という名の牧場があり、養豚を営んでいた畜産農家の人たちが住んでいたのだが、一家は何者かに惨殺され、以来、廃墟となったその牧場には、惨殺された一家の幽霊が出るという噂が広がった。(……らしい)

……そのようなわけで、この場所はちょっとした「名所」になり、県外からも多数の人間が「肝試し」に訪れるようになった。
牧場の表門が「城門」のように見えるので、「武家屋敷」という通称で呼ばれているこの牧場跡は、ご丁寧なことに、グーグルマップにも写真とともに場所が投稿されている。
加古川市民である私も、時々この廃墟の前を車で通りすぎることがあるが、少し前までは誰でも入れるようになっていたこの廃墟も、現在では、「立入禁止」と書かれた赤いコーンが門前に置かれているのを目にするようになった。
不逞な輩が屯して敷地内に侵入するためか、市か土地の所有者が「警告」のために設置したのだろう。
他人の土地に無断で入った上にゴミを散らかし、あまつさえ、人様の建物に落書きさえしている有様である。
廃墟とはいえ、他人の土地や家屋に無断で立ち入ることは、れっきとした「犯罪」であることを認識してもらいたい。

一家が惨殺されたというその噂自体も、「眉唾物」だと私は思っている。
私には「霊感」というものはないが、本当に霊感のある人なら、そのような「禍々しい場所」に好んで近づくことはしないだろう。
そしてここには、初めから「幽霊」などいない。
人から忌諱されるそのような場所に集まるのは「幽霊」ではなく、生きている「人間」である。
肝試しに訪れた人間が、そこで事故や事件に巻き込まれ、最悪の場合、命を失って、その場所が本当に「心霊スポット」になってしまうかもしれない。
「死んでいる幽霊」よりも怖いのは、やはり「生きている人間」のほうだろう。

下の写真は、15年前に車で通りがかったときに撮影した当該廃墟の様子。
奇しくも、今回「野々大神社」を訪れた日と同じ「2月10日」であることに気づいたが、その関連性に「霊的」なものなどは一切ない。

Img_0610

Img_0611

Img_0612通称「武家屋敷」(伝「高田牧場」跡) 三枚ともウィルカ撮影(2005年2月10日)




Google AdSence

2020年2月 7日 (金)

「稲荷神社」 兵庫県加古川市平岡町

20190415_050940871_ios

「稲荷神社」

主祭神 保食神(うけもちのかみ)
配祀神 なし
建立年 不明
所在地 兵庫県加古川市平岡町新在家1031

加古川市平岡町新在家(しんざいけ)にある小規模な稲荷神社。
食物の神である「保食神」を祀っている。

*

 

20190415_050903352_ios「神社外観」

鳥居はなく、神社の周囲は、玉垣の代わりにコンクリート製のブロック塀で囲まれている。
たいていの神社は、入り口からまっすぐ参道をたどった先に本殿が建立されているが、こちらの本殿は、神社の入口の左手にあたる北側に建立されている。

現在、神社の南側には新在家公会堂が建てられており、公会堂のすぐ手前には、旧街道の「山陽道」が、南東から北西に向かって通っている。
もしかすると、本来の入り口は、境内の南側にあたる場所にあり、現在公会堂のある場所を南北に突き抜けて、旧街道にまで参道が伸びていたのかもしれない。
しかしながら、神社の入り口は必ずしも本殿の正面に設けられるものでもないようだ。

20190415_050940871_ios

「本殿」

大人の背丈ほどの小さな木製の本殿が、玉垣で囲まれた聖域に南向きに建立されている。
「兵庫県神社庁」のウェブサイトによると、こちらのお社を管轄している神社は、新在家の氏神である「野口神社」であり、例祭日は「10月15日」となっている。

他府県の神社庁のサイトでは、小規模な神社の情報は掲載されていないこともあるが、兵庫県神社庁では、「無挌社」に分類されるこのような小さな神社でも、主祭神や所在地などの詳細な情報が余すことなく記載されている。

20190415_051143973_ios 20190415_051114165_ios

「境内摂社・末社」

「摂社」とは、「本社」の本殿に祀られている主祭神とゆかりのある神(夫婦関係や親子関係にある神など)の祀られている小さなお社のことで、それ以外の神が祀られているお社を「末社」という。

こちらの神社には、本殿に向かって左側に木製の摂社(写真上)と、本殿の敷地内に石製の小さな末社?(写真下)が見られたが、そのどちらにもご神体の姿はなく、外観だけが残されていた。

20190415_051007920_ios

20190415_051026611_ios

かつて私が暮らしていた家は、こちらの神社から歩いて数分くらいの場所にあった。
小学生当時、同じ地区に住む1年生から6年生までの児童が、十数人ほどの男女のグループに分かれて集団登校をしていた。
神社の南側にある新在家公会堂が、私たちのグループの集合場所になっていたのだが、集合場所として大人が勝手に決めた公会堂は専ら「ランドセル置き場」であり、私たち子供にとって、本当の集合場所は、この「稲荷神社」だった。

当時は、榎と思われる二本の大きな木が境内に生えていて、神社の境内の北東(写真上)には、四人乗りの箱型ブランコが設置されていた。
登校前の待ち合わせ時間に境内で野球をしたり、神社のブランコに乗って遊ぶのが、当時の私たちの常であった。

箱型ブランコには、列車のボックス席のようにして二人~四人で向かい合って座るのが普通の乗り方なのだが、私を含めた腕白盛りの男の子たちの乗り方は少し違っていた。
「漕ぎ役」の二人が、向かい合って並んでいる椅子を跨ぐようにしてそれぞれがブランコの両側に分かれて立って乗り、漕ぎ役の二人の内側に「乗客」の二人が座った。
漕ぎ役の二人は、箱型ブランコの二つの椅子を連結している中央の底板が、がしゃん! がしゃん! と近所中に響き渡るくらいの大きな音をたてながら、椅子の裏側に激しく打ち付けられるほど思いっきり漕いだ。
そのおかげで、ブランコの支柱を固定しているコンクリートの表面に亀裂が入り、私たちがブランコを漕ぐたびに、今にも地面から支柱が外れてしまいそうになるほどにブランコ全体が振動した。

ブランコの奥には榎の木があって、ブランコの底板を固定している留め具が榎の木の幹に毎回当たるおかげで、樹皮の表面が深くえぐられて傷がついていた。
言うなれば、神社の境内に植えられている榎の木は「ご神木」なのだが、当時の私たちはそんなこともおかまいなしに、木の幹のできるだけ高い場所に傷を付けようとして、ご神木である榎の木を破壊する勢いでブランコを漕いでいたのである。
その傷は、あれから40年ほどが過ぎた今でも、まだ木の幹に残されていた(写真下)。

また、先述したように、柔らかいビニール製のおもちゃのボールを使って、右手をバット代わりに境内で野球をすることもあった。
神社を囲っているブロック塀の外側までボールが飛ぶと「場外ホームラン」、神社のご神体である本殿にボールが当たると「スリーベースヒット」とされた。
そのために私たちは競って、本殿めがけておもちゃのボールをぶつけていたのである。

「罰当たり」だと、大人たちは子供たちを叱るだろう。
けれど、稲荷神社の「神様」は、私たちを罰することはなかった。

今、神社の境内に、子供たちの声が聴こえることはない。

 

平成31年4月15日参拝 ウィルカ




Google AdSence

2020年2月 3日 (月)

「大歳神社」  兵庫県加古川市平岡町

20190415_050423211_ios

「大歳神社」

主祭神 大年神(おおとしのかみ)
配祀神 なし
建立年 不明
所在地 兵庫県加古川市平岡町新在家552

兵庫県加古川市の南東の町、平岡町の住宅街の片隅にある大歳神社。

配祀神はおらず、食物の神である「大年神」を主祭神に祀っている。

 

*

 

20190415_050330902_ios

「鳥居」

コンクリートで作られた階段を昇った境内の入り口に、石製の明神鳥居が1基建てられている。
写真に向かって左側の柱の裏側に、「昭和十年三月吉祥日」の文字が彫られている。

20190415_050423211_ios

「本殿」

元来、私たち日本人は、自然界に存在するすべてのものに神が宿るとされるアニミズム……精霊信仰を行っていた。山や海、古い巨木や大きな石などの自然物のほかにも、動物や人間を含めた生物さえも精霊=「神」として崇められた。それらの神々は特定の住居を持たず、祭事の際には、神器や巫女などを依代(よりしろ)として、その都度に人間たちの前に降臨した。

6世紀に仏教が日本に伝来すると、大陸様式の塔や仏閣が国内に建立され、それに倣って、古くから信仰されてきた日本の神様たちが住まう場所、聖域としての「神社」が、各地で建立されるようになった。

「伊勢神宮」のような古い神社は例外にして、名のある大きな神社には、ご神体が祀られている「本殿」と、神社を訪れた人々がご神体を礼拝する場所となる「拝殿」が、本殿の手前に設けられている。

しかし、里や山に建てられた小さな神社には本殿と拝殿の区別がなく、中にご神体が納められた質素なお社が本殿と拝殿を兼ねていることがほとんどである。

こちらの大歳神社も、そうした数ある小さな神社のひとつだろう。

かつて私が住んでいた家がこの神社のすぐ近くにあり、幼い私の遊び場所にもなっていた。
当時は本殿も木製で、傷みも相当に激しかったが、近年、写真に見られるような真新しいお社に建て替えられた。
今も地元の人たちに愛され、信仰され続けている証であろう。

20190415_050438190_ios 20190415_050445863_ios「狛犬

阿吽(あうん)の形の狛犬。

よく見ると、向かって右側の、口を開いた阿形の狛犬の鼻がもげている。
その昔、子供のころの私が、この狛犬の背中に跨って遊んでいたころから鼻はもげていた。

長い歳月のうちに風化して落ちてしまったのか。
ひょっとすると、明治時代、江戸時代……、いや、もっと遠い時代に生きていた子供たちが、あの日の私と同じように狛犬の背に跨って遊んでいた拍子に鼻をもいでしまったのかもしれない。

悪意を持って狛犬の鼻をもいだのなら罰も当たるかもしれないが、子供が遊び半分で壊してしまったのなら、きっと神様も大目に見てくれるだろう。

なぜなら、神様は子供が大好きだからだ。
40年も前にこの狛犬の背中に跨ってたり、玉垣の上を歩いて遊んでいた私も、今のところはとくに罰は当たっていない。

20190415_050458708_ios

20190415_050545747_ios

「手水舎」

境内南側に設置された手水舎。
雨除けの屋根が設けられているが、桶の内部には水もなく、ここで手と口を清めることはできない。
反対側の境内北側に据え付けられている石碑には、神社への寄進に携わった方々らしき人名が記されている。

20190415_050655302_ios

神社外観。

私が幼なじみたちと遊んでいた玉垣は撤去されてブロック塀になり、以前は田んぼだった手前の土地も、現在は砂利が敷き詰められた月極め駐車場になっている。

ふと気になって、グーグルマップでこちらの神社を検索してみたら、「集落の中にあるごく普通な神社」という口コミのコメントが1件寄せられていた。

ほかにも同じような小さな神社を検索してみると、「古ぼけた祠がひとつあるだけ」だの「夜行くと怖い」だの、適当な扱いを受けている神社がいくつか見られた。

もちろん、投稿した人に悪気はないと思うが、そんな見当外れなコメントで神聖な神社が紹介されていることに、私は少なからずの怒りを覚えた。

「名もなき小さなお社の神様」がお祀りされている小さな神社を正しくご紹介すること。

それが、名もなき私に課せられた「使命」だと感じた。
御朱印やお守りが戴けるほどの大きな神社のご紹介は他の皆様方にお任せすることとし、私は自らの「使命」を、ここで綴ってゆこうと思う。

 

平成31年4月15日参拝 ウィルカ




Google AdSence

2019年4月30日 (火)

「稲荷神社」 兵庫県加古川市平岡町

Img_1709

「稲荷神社」

主祭神 保食神(うけもちのかみ)
配祀神 なし
建立年 不明
所在地 兵庫県加古川市平岡町新在家559

兵庫県加古川市の南東の町、平岡町にある小さな稲荷神社。
配祀神はおらず、食物の神である「保食神」を主祭神に祀っている。

 

*

 

Img_1705

「鳥居」

アスファルトで舗装された参道の入口に、朱色に塗られた木製の明神鳥居が2基建てられている。

「兵庫県神社庁」によると、当該神社は「地神社」と表記されているが、「稲荷神社」の特徴のひとつである「朱色の鳥居」が入口に建てられていることと、同神社の主祭神「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」とともによく祀られている「保食神」が本殿に祀られていることから、「稲荷神社」だと考えられる。

Img_1708

「本殿」

「本殿」というにはあまりにも小さなもので、神社には拝殿や玉垣・手水舎といったものもいっさいなく、観音開きの素朴な木戸のついた「石の祠」が、どこからか切り出してきたような岩の土台の上にぽつんと祀られているだけである。

祠の本体と屋根に使われている石も、土台と同じ岩から作られたものだと思われる。
手を合わせたあと、木戸の格子の隙間から祠の内側を覗いてみたが、ご神体らしきものが祀られている様子はなかった。

桔梗に似た薄紫色の花を咲かせた「蔓日々草(ツルニチニチソウ)」が、神社の敷地を覆いつくさんばかりに緑の蔓を伸ばしていた。
この「蔓日々草」は、南ヨーロッパから北アフリカにかけて広く分布している蔓性の植物で、「魔女のスミレ」というメルヘンチックな異名を持っている。

真冬でも枯れずに緑の蔓をたくましく伸ばしていることから、ヨーロッパでは「不死のシンボル」とされ、身に着けると「幸運」と「繁栄」をもたらしてくれるという。

遠い異国の地から海を越えて日本に飛んできた、魔女の花。
訪れる者が一人もいなくなっても、不死の花に守られたこの場所は、ずっと消えずに残ってゆくに違いない。
閉じられた扉に向けて、そっと差し出すように伸びているスミレ色の花が印象的だった。

Img_1709

稲荷神社は、京都から九州まで繋がるかつての西国街道……「旧山陽道」のすぐ南側にあり、旧街道を挟んだ北西側には「地蔵尊」が祀られている。
向かい側の地蔵尊とともに、この稲荷神社が今も変わらず同じ場所に存在していることを、図書館に蔵書されている旧街道の古地図で確認することができた。

稲荷神社が鎮座しているのは、農業倉庫として使われている建物の裏側にある30坪にも満たない狭い土地で、高さ2mほどのこんもりとした土の山のようになっており、その上に先ほどの石の祠が建てられている。
土の山は「塚」のようにも見え、土の中に埋まっている「なにか」を鎮めるために、祠が祀られているふうにも感じられる。

かつて、私が両親や妹たちとともに暮らしていた実家は、この稲荷神社のすぐ近くにあった。

今は幹の半分が切られて以前の面影はまったく消えてしまっているが、神社の境内である雑草の茂った丘の脇には、なんの木だかはわからない大きな木が傘のように枝を張っていて、夏になると、その木にとまってやかましいくらいに鳴いている大量のクマゼミを、幼なじみの友人たちといっしょに捕まえたものだった。

セミのほかにも、アリやカマキリやヒカゲチョウ、ゴマダラカミキリといった昆虫や、カナヘビ、カタツムリなどの生き物たちが、その小さな世界で生きていた。

当時は祠の裏手にキイチゴの木も生えていて、イクラの卵のように実ったキイチゴの甘い粒を、大人たちの目を盗んでは、やぶ蚊に刺されながら無心に食べていたこともある。

まだ幼い子供だった当時の私にとって、そこは恰好の遊び場所のひとつだったと同時に、「なにか」が祀られている「神聖な空間」であるということを、子供ながらに感じ取っていた。

Img_1725

稲荷神社から北東に150mほど離れた畑の中に、50㎝ほど土の盛り上がった「空き地」がある。
上の写真が、その「空き地」なのだが、そこはかつて「竹藪」があった場所だった。

……あれは、私がまだ5~6歳のころの話だったように思う。

その日の夕方、友達と別れて独りで遊んでいた私は、なんとなく近所を彷徨い歩いているうちに、いつのまにか「竹藪」の前に立っていた。

自分のいる小道から、鬱蒼と茂った竹藪の奥に向かって脇道が続いているのが見えた。

「竹藪の中」に何があるのか。

無性に知りたくなった私は、怖い気持ちよりも好奇心のほうが勝ち、誘われるままに竹藪の奥へと入っていった。

入口から、どれくらい歩いたのか。

その時間は、長かったようにも、一瞬だったようにも思える。
竹藪の奥にあったのは、小さな「お稲荷さん」だった。

ずいぶん長い間手入れもされていないらしい古い社の前には、泥で汚れた白磁のお椀や割れた燭台などが、枯れた竹の葉にまみれてあちこちに散らばっていたのをなんとなく覚えている。

ふと私は、半分開いた木戸の隙間から、社の中を覗いてみた。
そこには、台座に納められた丸い小さな鏡と、胴体から真っ二つに千切れて床に転がっている「白狐の首」があった。
それを見た私は急に恐ろしくなり、竹藪の中から一目散に逃げ出したのだった。

……今も時々「夢」に出てくる、私の記憶の中の竹藪は、林くらい大きかったようにも思えるし、裏庭ほど小さかったようにも思える。

しかし、実際に訪れて見たその場所は、私の遊び場だった「稲荷神社」とほぼ同じくらいの小さな土地だった。

「そんなところに『お稲荷さん』なんかあったけ?」

あの日、半べそをかきながら家に帰ってきた私に、在りし日の母が首を傾げていたのを思い出す。

おそらく、その竹藪は私有地で、子供のころに私が見た「お稲荷さん」も、竹藪の持ち主が個人で建立してお祀りしていた神社だったのだろう。

あれから40年の時が過ぎ、「二つの小さな稲荷神社」を再び私が訪れたのも、「なにか」に誘われたからのような気がした。

 

平成31年4月15日参拝




Google AdSence

「愛宕神社」 兵庫県加古川市八幡町

Img_1663

愛宕神社(あたごじんじゃ)

主祭神 軻遇突智神(かぐつちのかみ)
配祀神 なし
建立年 不明
所在地 兵庫県加古川市八幡町中西条字城山931

 

加古川市北部の町、八幡の「城山(じょやま)」の頂に鎮座する神社。

配祀神はおらず、火の神である「軻遇突智神」を主祭神に祀っている。

*


Img_1679 「愛宕神社参道入口」

「城山」の頂上には、いくつかの道を通って至ることができるが、本殿と繋がっている石段の道が本来の参道であるので、城山の南側にある参道入口から愛宕神社の本殿にお参りすることにした。

参道入口付近に建てられている小さなお堂に、地蔵菩薩……「お地蔵さん」が祀られていた。
私は昔から「お地蔵さん」が好きで、道端でお見掛けしたら、なるべく手を合わせるようにしている。

「おん かかか びさんまえい そわか」

なにか困ったことや不安な気持ちに襲われたとき、心の中でこのおまじない……「地蔵菩薩真言」を唱えると、不思議と心穏やかな気持ちになれるのだ。

Img_1678

「愛宕神社参道」

参道の入り口に鳥居はなく、お地蔵さんのお堂の脇に、古びた石の階段が設けられている。
「わがまち加古川60選 西条の城山」と記された小さな案内看板が立てられている。

Img_1677

しばらく登ると石段が消え、代わって、枯葉に埋もれた小道らしきものが現れる。
「道」というより、「溝」といったほうが適切なのかもしれない。
傾斜もかなりきついので、雨の日などは、ぬかるんだ地面と枯葉に足を取られて歩くこともままならないだろう。

Img_1675

やがて、枯葉の小道は四つ辻と合流し、そこから再び石段の道になる。
石の階段のてっぺんにある樹木のトンネルの向こうに、ぽっかりと空いた青空の出口が見えた。

Img_1663 「愛宕神社境内」

樹木のトンネルを抜けると、朝の澄み切った青空の下で鮮やかな桃色の花を咲かせている二本の山茶花(さざんか)の木が、息を切らせて参道を登ってきた私を出迎えてくれた。

本殿の正面に対になって植えられている夫婦のような山茶花の木が、私には、この神社の「鳥居」であるように思えた。
山茶花の間をくぐり抜け、奥に見える本殿でお参りをする。

Img_1665 「愛宕神社本殿」

「愛宕神社」のご神体がお祭りされている切妻造りの小さな祭殿(本殿)は、堅固なコンクリート製の本殿兼拝殿の内部に守られるようにして納められている。

神様そのものである「ご神体」を写真に撮ることは無理だとしても、お祭りされているお社……本殿の外観を撮影するくらいなら神様も許して下さるだろうと思い、お参りを済ませたあとに、一礼して、拝殿の格子の隙間から写真を撮らせていただいた。

高床式の神殿、銅箔の張られた瓦のない切妻屋根、しめ縄で飾られた扉。これこそ、太古より「日本古来の神」が住まわれてきた家の形なのだろう。

本殿の扉を覆っている幕には、ほかの神社でもよく見られる「左三つ巴(ひだりみつともえ)」の紋が描かれている。

1024pxhidari_mitsudomoesvg

「左三つ巴」紋


日本古来の装飾品「勾玉(まがたま)」を象ったような三つの巴が、時計回りに渦を巻くように意匠されている。

時計回りと言えば「右回転」であるが、巴の「頭」ではなく「尾」に着目してみると、それぞれの巴の尾の先端が、頭の中心からぐるぐると外向き(左向き)に渦を描きながら「左回転」していることがわかる。

よって、この紋は「左三つ巴」とされる説がある。

三つの巴が「水の渦」のようにも見えることから、古来より「火除け」の意味合いがあり、寺社や屋敷の屋根瓦などにこの紋が広く用いられている。

各地の「愛宕神社」が、火の神である「軻遇突智神」を多く祀っていることからも、おもに火事から村や人々を護るために建立されていることがわかる。

Img_1670

拝殿の後ろ側に回ってみると、どういうわけだか知らないが、壁際の棚のようなスペースに、「ドングリ」がびっしりと集められていた。
湾曲した5本の細い木枝が半月様に組まれ、その内側に、大小100個ほどもあるドングリの実が整然と敷き詰められている。
神社に遊びにやって来た近所の子供たちが、雑木林に落ちているドングリを拾い集めてきて、ここにひとつひとつ並べ置いたのだろうか?

それにしては丁寧で、なにか呪術的な意味が込められているようにも思える。
ひょっとしたら、城山のどこかに住んでいる「狐」が、林に落ちているドングリをせっせと拾い集めては、神社に奉納したものなのかもしれない。

そんな光景がふと脳裏に思い浮かんだ私は、神聖な「結界」には手を触れずに、その場をあとにすることにした。

Img_1668 「境内摂社」

本殿うしろの敷地に祀られている小さなお社。
コンクリート造りのりっぱな建物に守られた本殿とは対照的に、長い間手入れもされていないらしい簡素な摂社は、割れた寝具とともに野ざらしになっていた。

Img_1667 石のベンチが置かれた神社の裏側は、ちょっとした「展望スポット」になっており、加古川北部の街並みを山の上から見渡すことができる。

写真の左側に見える大きな川が、市名の由来にもなっている一級河川の「加古川」で、川の下側には「加古川大堰(かこがわおおぜき)」があり、中央部には「上荘橋(かみそうばし)」、最奥には、JR加古川線の「加古川第二橋梁」が架けられているのが見える。

治水の要となっている加古川大堰の上流部は障害物もなく、十分な川幅と豊富な水量が常に確保されているため、「レガッタ」の練習や公式試合の競技場としても利用される。

「城山」のちょうど西にあたる方角に「愛宕山」があり、加古川を挟んだ東西それぞれの山の頂には、同じ「軻遇突智神」を祀った「愛宕神社」がある。
愛宕山と城山に鎮座している二人の神様は、互いの顔を山の上から窺っているのかもしれない。

Img_1671 「西条城跡」

愛宕神社のある城山は、かつて存在していた「西条城」の城跡とされている場所で、境内に設けられている案内看板には以下のような記述がある。


西条の城山(さいじょうのじょやま)

「標高85メートルの城山は、赤松則村(円心)(1277-1350)の城館跡と伝えられていることから、西条城跡の遺跡になっています。

江戸時代中期の地誌である『播磨鑑』には、中西条村から東へ2丁(約218m)の場所にあり、長さ140間(約265m)、横幅100間(約182m)、高さ84間(約153m)と記されています。

また、この城山には、建武3年(1336)に建立された紫鳳山法雲禅寺という寺院がありましたが、江戸時代には廃寺となったことが記されています。」

平成26年3月 加古川市教育委員会


赤松氏第4代当主であり、禅宗に帰依していた「赤松則村」という名のある武将は、知略に長け、戦上手の剛腕無双の武士でありながら、義理堅く、情に厚い人物だったと評されている。

鎌倉幕府打倒を掲げた「後醍醐天皇」と、室幕幕府の樹立を目指す「足利尊氏」の挙兵に応じ、両君を大いに助け、数々の武功をあげた則村は、現在の加古川を含む播磨の国を治める守護大名として「播磨守護職」に任じられた。

後醍醐天皇が挙兵に及んだ「元弘の乱」においては、鎌倉幕府方に内通しようとした一族の高田氏を、ここ「西条城」で迎え撃ち、敗退させたとされている。

その赤松氏の家紋が、西条城のあった城山に祀られている愛宕神社と同じ「左三つ巴」の紋であることも、偶然ではないだろう。

「具平親王神社」に祀られている「具平親王」の子孫である赤松氏は、のちに、京極氏、一色氏、山名氏とともに、室町幕府の軍事指揮等を担う要職の「四職家」のひとつとなり、播磨・摂津・美作・備前の四か国を領する大大名(だいだいみょう)となった。

しかし、守護大名赤松氏の守護代であった浦上氏による専横と、尼子氏、三好氏などの新興勢力の台頭により、室町幕府の名門として隆盛を極めた赤松氏の勢いは急速に衰退してゆくことになる。

時が変わり、天下統一を目前にした織田信長が臣下の羽柴秀吉に命じて播磨を支配下に置いたころには、赤松氏の勢力は事実上消滅しており、もはや名目だけの大名にすぎなかった。

その後、豊臣家の一家臣として関ヶ原の戦いで西軍についた赤松氏は所領を失い、大阪の陣で豊臣家が滅亡すると、帰農して郷士……土着の武士となった。
ここに、武家としての赤松氏は滅亡したのである。

私事で恐縮ではあるが、沖縄近くの離島出身の私の父方の先祖は、もともとは九州の島津氏の流れを汲む武士であり、「江戸幕府の滅亡後に武士を捨てて農民になった」という話を、亡き父から伝え聞いた。

その割には、直系の嫡男であるはずの私は先祖代々の系図や刀などもいっさい受け継いでいないので、自身の先祖が島津氏だったという事実も真偽のほどは疑わしいものなのだが……。

とはいえ、今の私の地元である播磨地方の名門赤松氏の衰退と、はるか海の向こうの琉球で暮していた自身の先祖の境遇がどこか似ていることに、この城山に残る愛宕神社を訪れた私も、不思議な縁のようなものを感じずにはいられなかった。


平成31年年4月4日参拝 ウィルカ




Google AdSence

「具平親王神社」 兵庫県加古川市野口町

Img_1687

具平親王神社(ともひらしんのうじんじゃ)

主祭神 具平親王(ともひらしんのう)
配祀神 大年神(おおとしのかみ)
建立年 天永二年(1111年)
所在地 兵庫県加古川市野口町古大内457

加古川市野口町の旧「古大内(ふるおうち)村」にある神社。

「村上天皇第七王子具平親王八世の孫従三位右近衛少将秀房卿(源秀房)が鳥羽院の勅を奉じ、天永2年(1111)、古大内の地に移り鎮まった。村名、古大内(ふろち)(古い大内)もこのことに因る」

「兵庫県神社庁」ウェブサイトより)

上記のとおり、村上天皇の第七皇子であった「具平親王」の御霊を祀るために、その子孫の「源秀房」が建立したとされる。

配祀神(はいししん)として、「大年神」が祀られている。

*


Img_1686 「鳥居」

参道入口に建てられている「明神鳥居」。

鳥居を構成している一対の柱と上下二本の横木のうち、柱の頂に載せられる上側の横木を「笠木(かさぎ)」といい、笠木と並行して柱の下側に組まれている横木を「貫(ぬき)」という。

「島木(しまぎ)」と呼ばれる角材が、笠木の底側に張り合わせられるようにして置かれた鳥居が「明神鳥居(みょうじんとりい)」で、全国で最も一般的に見られる鳥居の形とされている。

笠木の両端が反り上がっているのが明神鳥居の特徴で、二本の横木の間に「額束(がくづか)」という方形の額が組まれていることが多い。

向かって右側の鳥居の柱には「皇紀二十六百年秋建之」と彫られてあり、この鳥居が昭和15年(1940年)の秋に建立されたことを示している。

Img_1695 「百度石」

鳥居の脇にある「百度石(ひゃくどいし)」。
傍らには「水仙」の花が咲いていた。

参道脇にある「手水舎(ちょうずや。ほかに、ちょうずしゃ・てみずや・てみずしゃ、とも読む)」で、手と口を清めてから本殿に向かう。

百度石に寄り添って咲いている水仙の花が愛らしく印象的だったので、肝心の手水舎の写真を撮ることをすっかり忘れてしまった。


Img_1687 「具平親王神社本殿」

鳥居をくぐって50mほど参道を歩いた先に、「玉垣(たまがき)」に囲まれた質素な本殿があり、その中にご神体の祀られた祭壇が納らている。

本殿に祀られている「具平親王」は、優れた文人・詩人として知られ、『拾遺和歌集』をはじめとする著名な詩集に数多くの詩歌を遺している。


『春はなほ来ぬ人待たじ花をのみ心のどかに見てを暮らさむ』 具平親王(続拾遺87)


木造の本殿は質素だが、手入れの行き届いた境内にはブランコやすべり台などの遊具も置かれており、「氏神様」として日ごろから地域の人たちに親しまれている神社であることが窺い知れる。

Img_1696

Img_1697

「狛犬」

本殿を守護している「狛犬(こまいぬ)」。

獅子=ライオンが原型で、高麗(朝鮮)の地から日本に伝来したライオンを初めて見た人々が「犬」だと思い込み、「高麗犬」と呼んで神社の守護としたのが「狛犬」のはじまりとも言われている。

本殿に向かって右側のものが、口を開いた形の「阿形(あぎょう)」の狛犬、左側が「吽形(うんぎょう)」の狛犬で、一対で「阿・吽(あ・うん)」の形をとっている。

「阿・吽」は、古代インドのサンスクリット語「梵字」が語源で、梵字の文字の配列が、口を開いた状態の「あ」からはじまり、口を閉じた状態の「うん」で終わることから転じて、「宇宙のはじまりから終わりを示す理」とされた。

日本の「ひらがな」の仮名文字が、「あ」からはじまって「ん」で終わるのも、偶然ではないような気がする。

この小さな境内の中に「宇宙」のはじまりと終わりが存在するのだと考えると、なかなかに感慨深いものがある。


Img_1690 「境内摂社」

本殿の東側に建てられている社殿。

主祭神が祀られている大元の神社(本社)に付属している神社(小社)を「摂社(せっしゃ)」といい、本社と同じ境内に建てられている摂社を「境内摂社」と呼ぶ。
摂社には本社と関係の深い神が祀られている。
社殿の中には「石」が置かれているが、こちらの石が「大年神」として祀られているのだろうか。


Img_1688

「末社」

摂社と反対側にある本殿の西側には、かわいらしい二つの小さな社が置かれていた。
摂社と同じように、こちらの社の中にも「石」が祀られている。

Img_1691  「古大内城址石碑」

神社の境内には、「古大内城址」と彫られたりっぱな石碑と、「古大内遺跡(賀古駅家跡)」と記された市の案内板が、参道を挟んで両側に向かい合うようにして建てられている。

神社から北に200~300mほど離れた先に、国道2号線と並行するようにして旧街道の「山陽道」が通っており、今から1000~1300年ほど昔に「賀古駅家(かこのうまや)」という駅(うまや)が街道脇に設けられていた。

奈良時代当時、山陽道最大=日本最大の規模であった「賀古の駅」には、常時40頭以上の馬が準備されていたと『播磨風土記』に記述されている。

その「賀古の駅」のあった場所が、この「具平親王神社」が建立されているあたりだとされているのだが、同時にそこは「古大内城」のあった場所だともされているのである。

しかしながら、市の教育委員会によって設置された古墳の案内板には、「古大内城」については一言も触れられていない。

「古大内城」は、かつて播磨国・美作(みまさか)国・備前国を支配した守護大名「赤松氏」の始祖「源秀房(季房とも)」が築城したものと伝えられているので、同じく源秀房が建立した「具平親王神社」に「古大内城」が存在していたとしても、おかしくはない話である。

Img_1698

言われてみれば、神社の西側にあたる草木が生い茂ってる場所(上の写真)は、城の「内堀」の跡のようにも見えなくもない。


<付記>


Img_1682

具平塚古墳(ぐへいづかこふん)

 

「具平親王神社」から西に1kmほど離れた「別府川」の東岸に、「具平塚古墳」という史跡がある。

<江戸時代の地誌『播州名所巡覧図鑑』に、「具平親王墓」の記載があり、世に朱見塚(しゅけんづか)といったことが記されている>

……と記載された角柱が、申し訳程度に古墳のそばに埋められているが、「古墳」と呼ぶには奇妙な代物で、田んぼの中にぽつんと残されているそれは、傍目には「雑草が生い茂ったただの土の山」のようにも見える。

Img_1685

ところで、この「具平塚古墳」と呼ばれている塚には、

「塚に触ったり、生えている草を刈り取ったりすると『祟り』がある」

という恐ろし気な言い伝えが、地元の人たちの間で今も残っているという。

雑草が生えて荒れ放題になっているのは、「祟り」を畏れて、だれもこの塚に触ろうとしないからなのだとか(……この塚に角柱をぶっ刺した人は、その後大丈夫だったのだろうか?)。

この塚が本当に「具平親王の墓」であるのかは定かではないが、「祟り」として語り継ぐことで、神聖な領域が汚されるのを防いでいるのかもしれない。

現にこの塚は、今でも取り壊されずに残っているのだから。


平成31年4月7日参拝 ウィルカ




Google AdSence

より以前の記事一覧